留守第57師団
表示
留守第57師団(るすだいごじゅうななしだん)は、1941年から1943年と、1944年から1945年に、日本の青森県弘前市に司令部をおいて地域防衛と徴兵・訓練などを業務とした大日本帝国陸軍の部隊である。弘前師管を管轄した。
1941年から1943年
[編集]東北地方北部にあたる弘前師管は、1940年新設の第57師団の管区であった。第57師団が1941年(昭和16年)7月に関東軍特種演習(関特演)参加のため秘密裏に動員されたとき[1]、弘前師管を引き継ぐために臨時編成された留守師団が、留守第57師団である。部隊名は第57師団に対応するが、別の師団長と別の指揮系統を持つ別部隊である。上級部隊は北部軍で、1943年2月に北方軍と改称した。
1943年(昭和18年)5月14日の軍令で、第47師団を弘前に新設することが決まった。留守第57師団と第67独立歩兵団から新師団を作り、留守第57師団は復帰(解散)となった[2]。
1944年から1945年
[編集]戦況が悪化すると、1944年6月29日に第47師団は戦時動員をかけて大本営直属の予備戦力となった[3]。弘前師管の管区業務を引き継ぐため、留守第57師団が改めて臨時編成された[4]。上級部隊は東部軍である。
1944年2月9日制定(10日公布)の軍令陸第2号で、臨時的性格の留守師団をやめ、常設の師管区部隊をおく制度が定められた[5]。これにもとづいて4月10日に留守第57師団は復員(解散)し、かわりに弘前師管区部隊が編成された[6][4]。
師団長
[編集]師団の編制
[編集]1944年から1945年の編制[4]。「東部xx部隊」は部隊の通称号である[10]。
- 留守第57師団司令部(弘前)
師団司令部の下には4つの連隊区司令部があった。
脚注
[編集]- ^ 戦史叢書『陸軍軍戦備』、313 - 314頁。
- ^ 『本土決戦準備』<1>、73頁。戦史叢書『陸軍軍戦備』、377頁。
- ^ 戦士叢書『本土決戦準備』<1>、112頁。『陸軍軍戦備』、430頁。
- ^ a b c 陸軍省『「マ」司令部提出 帝国陸軍部隊調査表 集成表(原簿)List2-(1)』(昭和20年10月下旬)、「145. 弘前師管区部隊 (57D関係)」 アジア歴史資料センター Ref.C15011214900 。
- ^ 『官報』第5420号(昭和20年2月10日)。
- ^ 昭和20年軍令陸甲第25号。戦史叢書『陸軍軍戦備』474頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』294頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』316頁。
- ^ 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』313頁。
- ^ 参謀本部第三課調査班、『編合部隊概見表 昭和19年8月以降』、「留守第2~第7・第19~第20・第30・第51~第57師団」 アジア歴史資料センター Ref.C12121064300 。
参考文献
[編集]- 内閣印刷局『官報』。国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧。
- 参謀本部第三課調査班、『編合部隊概見表』(昭和19年8月以降)。アジア歴史資料センターで閲覧。
- 陸軍省『「マ」司令部提出 帝国陸軍部隊調査表 集成表(原簿) List2 - (1)』。アジア歴史資料センターで閲覧。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備』(1)、関東の防衛、(戦史叢書)、朝雲新聞社、1971年。
- 防衛庁防衛研修所戦史部『陸軍軍戦備』(戦史叢書)、朝雲新聞社、1979年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。