大野武城
表示
大野 武城 | |
---|---|
生誕 |
1898年1月3日 日本 東京府 |
死没 | 1983年12月27日(85歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1919年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
大野 武城(おおの たけき[1]、1898年(明治31年)1月3日[2] - 1983年(昭和58年)12月27日[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功四級[1]。
経歴
[編集]1899年(明治31年)に東京府で生まれた[2]。陸軍士官学校第31期、陸軍大学校第44期卒業[2]。1939年(昭和14年)8月に第15師団参謀長(第13軍)に就任し[1][2]、日中戦争に出動して首都南京の警備に任じた[2]。1940年(昭和15年)8月1日に陸軍歩兵大佐に進級し[1]、9月9日に陸軍省人事局附となり[1]、陸軍功績調査部部員に命じられた[1]。
その後陸軍兵器行政本部附兼陸軍省人事局附となり[3]、1944年(昭和19年)8月1日に陸軍少将進級と同時に支那派遣軍教育隊長に着任[1][2]。同年12月29日に第4軍参謀長(関東軍)に就任[2]。ソ連対日参戦の際には隷下の独立混成第80旅団がハイラル各地区陣地でソ連軍と激戦となり[4]、有力な戦車・砲兵部隊を引き付け、停戦まで陣地の大部を確保するなど健闘[4]。さらに大野によれば8月16日には狭隘な陣地に集中するソ連軍に対し、隷下の第119師団が大打撃を与えることもできたが[5]、第4軍司令部の命により積極的攻撃を行っていないという[5]。終戦後はシベリアに抑留された[2]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[6]。1956年(昭和31年)12月28日に帰国した[2]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 中山隆志 著『ソ連軍進攻と日本軍』国書刊行会、1990年。ISBN 4336031673。
- 福川秀樹 編著『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操 編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。