大針徳兵衛
5代 大針 徳兵衛(德兵衞、おおばり とくべえ、1847年3月17日(弘化4年2月1日[1])- 1908年(明治41年)8月11日[1][2])は、明治期の実業家、政治家。衆議院議員、福井県坂井郡雄島村長。幼名・長之助[1]。
経歴
[編集]越前国坂井郡安島浦[1](福井県[2]坂井郡安島浦、雄島村[3]安島[1]、三国町安島[1][4]を経て現坂井市三国町安島)で、回漕業・4代大針徳兵衛の長男として生まれた[1]。明治のはじめに5代徳兵衛を襲名した[1]。回漕業を営む[1]。
里正、組合総代、敦賀県第53大区小2区戸長、第14大区23小区戸長、浦役人、学務委員、所得税調査委員などを務めた[1][2][3]。1889年(明治22年)5月、雄島村会議員となり[1][4]、1890年(明治23年)2月、雄島村長に就任し[1][2][3][4]、安島道の改修に尽力した[1][4]。1890年3月、福井県会議員に選出され[1][4]、府県制施行による改選で1891年(明治24年)8月に再選され[1]、1893年(明治26年)8月まで在任し[1]、同参事会員も務めた[2][3]。
坪田仁兵衛の死去に伴い、1896年(明治29年)9月に実施された第4回衆議院議員総選挙福井県第2区補欠選挙で当選し[1][4][5][6]、自由党に所属して衆議院議員に1期在任した[1][2][3][4]。1903年(明治36年)10月、坂井郡会議員となり、同議長も務めた[1][2][3][4]。
実業界では、福井県農工銀行取締役を務め[1][4]、1899年(明治32年)7月、三国商業銀行頭取に就任[1][4]。日露戦争後、南樺太に移り、大泊に店舗を設けて交易事業を行ったが[1][4]、1908年8月、病のため樺太庁大泊医院で死去した[1]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局『第一回乃至第十九回総選挙衆議院議員当選回数調』1936年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 福井県議会史編さん委員会編『福井県議会史 議員名鑑』福井県議会、1975年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『福井県大百科事典』福井新聞社、1991年。