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大阪市立豊崎東小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大阪市立豊崎東小学校
地図北緯34度42分48秒 東経135度30分57秒 / 北緯34.71322度 東経135.51572度 / 34.71322; 135.51572座標: 北緯34度42分48秒 東経135度30分57秒 / 北緯34.71322度 東経135.51572度 / 34.71322; 135.51572
過去の名称 西成郡豊崎第四尋常小学校
大阪市豊崎第四尋常小学校
大阪市豊崎国民学校
国公私立の別 公立学校
設置者 大阪市
設立年月日 1917年11月
創立者 西成郡豊崎町
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
学校コード B127210000848 ウィキデータを編集
所在地 531-0062
大阪市北区長柄中2丁目3番30号
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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大阪市立豊崎東小学校(おおさかしりつ とよさきひがししょうがっこう)は、大阪府大阪市北区にある市立小学校。愛称は「とよひが」。

沿革

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学校所在地周辺は大正時代まで西成郡豊崎町に属していた。豊崎町では大阪市に隣接している地理条件や産業発展などに伴って人口が急増し、それに伴い地域の児童も急増した。従来の豊崎第二尋常小学校(現在の大阪市立豊仁小学校)の校区を分離する形で、1917年に旧西成郡豊崎町で4番目の小学校・西成郡豊崎第四尋常小学校として開校した[1]

豊崎町は1925年、大阪市に編入された[2]。これに伴い大阪市豊崎第四尋常小学校に改称している[1]

1934年室戸台風では強風により木造校舎が倒壊し、児童多数が死傷する(翌日の新聞報道時点では死亡19人、負傷13人、行方不明3人)大きな被害を受けた[3][1]

1941年には国民学校令により、大阪市豊崎東国民学校と改称した。太平洋戦争の影響で1944年以降学童疎開を実施することになり、京都府天田郡上夜久野村中夜久野村(いずれも後年の夜久野町、現在は福知山市に編入)に集団疎開をおこなっている[1][4]

戦災被害により、1946年には大阪市豊仁国民学校を合併した。1947年には学制改革により、大阪市立豊崎東小学校となった[1]

戦災からの地域復興に伴い、1954年大阪市立豊仁小学校が復興・再開している。

1970年4月8日に同校校区付近で天六ガス爆発事故が発生した。現場近くにいた児童らも事故に巻き込まれ、同校児童5人が死亡・10人が負傷する被害があった[1]

年表

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通学区域

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  • 大阪市北区 国分寺1丁目・2丁目、天神橋7丁目(一部を除く)、長柄中1丁目、長柄中2丁目(一部を除く)、長柄西1丁目(一部)、長柄東1丁目、長柄東2丁目(一部)。
卒業生は大阪市立新豊崎中学校に進学する。

出身者

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交通

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脚注

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  1. ^ a b c d e f 沿革”. 大阪市立豊崎東小学校. 2023年4月14日閲覧。
  2. ^ 1925年東淀川区、1943年大淀区、1989年北区。
  3. ^ 高潮の阪神沿道で三百人行方不明『大阪毎日新聞』昭和9年9月22日号外(『昭和ニュース事典第4巻 昭和8年-昭和9年』本編p230 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  4. ^ 旧大淀区(現北区)からの学童集団疎開”. 大阪市内で戦争平和を考える. 2023年4月14日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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