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大須賀応

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
大須賀 応
生誕 1894年1月25日
日本の旗 日本北海道札幌市
死没 (1945-03-26) 1945年3月26日(51歳没)
日本の旗 日本東京都硫黄島
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1915年 - 1945年
最終階級 陸軍中将
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大須賀 応(おおすか ことを[1]1894年明治27年)1月25日[2] - 1945年昭和20年)3月26日[2][注 1](異説あり。本文参照))は、日本陸軍軍人。最終階級陸軍中将

経歴

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北海道札幌郡琴似村大字篠路村(現・札幌市北区屯田)出身[1]。陸軍屯田兵軍曹・大須賀忠夫の子として生まれる[1]札幌中学を経て[1]1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業[1][2][3]。同年12月、砲兵少尉に任官し野砲兵第7連隊付となる[3][4]1927年(昭和2年)12月、陸軍大学校(39期)を卒業した[2][5]

1937年(昭和12年)12月、第16師団参謀として南京攻略戦に参加[要出典]1938年(昭和13年)7月、砲兵大佐に昇進し野砲兵第22連隊長に就任[2][5]武漢作戦に参加[2]1940年(昭和15年)8月、第116師団参謀長に転任し、安慶での警備に当った[2][5]1941年(昭和16年)10月、陸軍少将に進級し太平洋戦争を迎えた[2][5]

1942年(昭和17年)3月、基隆要塞司令官に就任[2][5]1944年(昭和19年)2月、父島要塞司令官に転じた[2][5]。同年5月、混成第2旅団長、同年12月、第109師団司令部付となる[2][5]硫黄島の戦いに参戦し、1945年(昭和20年)3月26日、最後の総攻撃で戦死[1][2]。陸軍中将に特進した[2][5]

死亡年月日については異説もあり、当時硫黄島参謀として父島に在勤していた堀江芳孝元陸軍少佐は、「大須賀少将は1945年3月26日の総攻撃には参加せず、入院先の野戦病院で戦死したらしい」と述懐している[6]

親族

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  • 弟 大須賀実(陸軍大佐)[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 『日本陸軍将官辞典』148頁で「3月17日」とあるが、同書149頁で「20年3月26日に最後の総攻撃で戦死」との記載により3月26日とした。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 『屯田部落七十年史』114頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m 『日本陸軍将官辞典』148-149頁。
  3. ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』369、378頁。
  4. ^ 『官報』第1022号、大正4年12月27日。
  5. ^ a b c d e f g h 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』378頁。
  6. ^ 堀江芳孝 『闘魂 硫黄島―小笠原兵団参謀の回想』光人社NF文庫、新版2005年、239頁

参考文献

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  • 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 『屯田部落七十年史』屯田自治会、1959年