父島要塞
父島要塞(ちちじまようさい)は、父島の防備のため設置された大日本帝国陸軍の要塞である。
概要
[編集]父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場、無線通信所などを設置していた[1]。海軍からの強い要請で、1920年8月、陸軍築城部父島支部が設置され、測量・砲台設計に着手した。砲台工事は1921年7月から着工された。しかし、1922年2月、ワシントン軍縮会議による太平洋防備制限条約により砲台工事は中止となった。
1934年12月、日本の防備制限条約からの脱退に伴い、中止した砲台工事を再開し備砲工事に着手した。1940年8月、戦備作業が指令され、1941年9月、父島要塞臨時編成令が出され戦備に入った。日米開戦後は陸軍部隊の他、海軍の第7根拠地隊から新たに改変された父島方面特別根拠地隊や、主に対潜哨戒を任とする父島海軍航空隊(後に第九〇三海軍航空隊に編入)等が防備に当たっていた。
1944年2月、大本営はマリアナ諸島及びトラック島を始めとする南洋諸島の防備拡大を目的とした第31軍を編成、父島要塞司令部もこの指揮下に置かれる。同年5月、父島・母島・硫黄島の各守備隊を元に第109師団を編成、小笠原兵団栗林忠道兵団長の指揮下に入る。この時、小笠原諸島各島の住民6,886人(残留者 825人)は本土へ強制疎開となった。
この頃から父島要塞へのアメリカ軍の空襲が激化。特に1944年8月頃から開始されたスカベンジャー作戦では艦砲射撃も交えた猛攻撃が行われ、日本側は父島海軍航空隊がほぼ壊滅、濱江丸等の多数の艦艇を喪失した。しかし日本側の反撃も激しく、多くのアメリカ軍機が対空砲火で撃墜されている。その中には、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ中尉の乗機も含まれていた[2]。
その後の父島要塞には散発的に空襲が行われた程度で、母島共々大きな地上戦闘は発生しないまま終戦を迎えることとなるが、硫黄島の戦いに備えて硫黄島へと重火器や物資の抽出が行われたこともあり、守備兵は困窮と飢餓の中で苦しい自活を強いられることとなる。その最中で小笠原事件のような事態が発生したとされている。
1945年9月3日、アメリカ海軍駆逐艦ダンラップ艦上で小笠原の日本軍は降伏調印。その後父島要塞はアメリカ海軍の占領下に置かれ、残存していた重火砲類は全て爆破処理にて無力化が行われた。1946年10月には欧米系島民が日系島民に先んじて帰島を果たすが、占領下での困窮した生活の自助のために、父島要塞跡内に残存していた兵器の残骸を屑鉄として回収する事で生計を立てる例も見られたという。
父島要塞跡は母島の日本軍施設とともに、今日でも多数の地下壕や重火砲類の残骸が比較的良好な状態で現存しており、小笠原諸島の観光資源の一角を成している。
大正8年8要塞整理案
[編集]要塞新設に関しては、海軍側の熱望極めて大なるものありき。しかして陸軍また大戦後の新情勢に鑑みその必要を認め、ついに明治の末期より画策の開始せられ、ようやく本年5月御裁可となりし要塞整理要領に、さらに追加として両要塞の台頭を見るにいたりたるものなり。
- 目的:南方諸島方面における我が海軍の拠点を成形す。
- 任務:海上及び空中よりする敵の攻撃に対し我が海軍と相まって二見港を援護す。
- 兵備:堡塁砲台 砲種砲数
- 大村第一:四五式二四榴 4
- 振分山 :一五速加 4
- 大村第二:一五速加 4
- 洲崎 :七・五速加 4
- 予備砲 :山砲 8 、高射砲 4、機関砲 12
大正9年現地踏査の結果の本建設要領書
[編集]砲台の位置を下記(原文・左記)理由により全部大村地区にまとめ、さきに追加要領にて定められたる振分山及び洲崎砲台はいずれも皆大村地区に 移されたり。
大村地区に集結の理由
- 兵備を二見港の南北両岸地区に分置する時は営造物、交通並びに通信複雑となり多くの経費を要す。
- 南岸のみに集結するも不利なり、航路は南岸に近しゆえに死角生じ砲台を適当に配置する 能わず。
- 南岸に集結せしむる時は海軍建設物の所在地たる奥村の援護不確実となる。
- 南岸は地形険峻にして土質不良なり。 新建設要領書による兵備は左の如し。
砲台 砲種砲数 摘要
- 大村第一:七年式三十榴 4 ※大正9年11月奄美大島要塞嘉鉄第一砲台の七年式三十榴と交換 [注釈 1]。
- 大村第二:一五速加 4 ※大村第二、第三砲台十五糎加農8門は将来移動砲架の制定を待ってこれと交換するを可とす [注釈 2]。
- 大村第三:一五速加 4
- ※大村第二、第三砲台十五糎加農8門は将来移動砲架の制定を待ってこれと交換するを可とす [注釈 2]。
- 大村第四:七・五速加 4
- 予備砲 :山砲 8、高射砲 6、機関砲 12
年譜
[編集]- 1906年(明治39年):父島にはマリアナ諸島とボニン諸島を通じてホノルルと東京を結ぶ海底ケーブルが敷設
- 1909年(明治42年):父島の地勢と望楼適地等を調査する為に海軍は第2艦隊(司令官島村速雄)を派遣
- 1910年(明治43年):第2艦隊が派遣され,二見湾のキャパシティや防御法などについて詳細な調査を実施
- 1914年(大正3年)
- 9月:海軍が父島最初の軍事施設として清瀬北方台地に父島北特設望楼を設置
- 11月:電信業務を開始
- 1917年(大正6年)12月:海軍は父島に二見海軍貯炭場を設置、太平洋の中継基地とする
- 1920年(大正9年)
- 1921年(大正10年)
- 6月:大村 南部軍道の工事に着手
- 7月:大村第1砲台・大村第2砲台着工
- 11月:米国ワシントンにおいて海軍軍縮会議開催
- 12月:大村第3砲台・大村第4砲台着工[注釈 3]
- 1922年(大正11年)
- 1923年(大正12年)
- 1927年(昭和2年)7月30日:昭和天皇が戦艦山城で父島、母島に行幸
- 1928年(昭和3年)4月:貯炭場は横須賀海軍軍需部・二見燃料貯蔵場と改称[注釈 8]
- 1932年(昭和7年)11月:父島洲崎に飛行場建設開始[注釈 9]
- 1933年(昭和8年)
- 3月:修正計画要領による父島要塞の兵備計画策定[注釈 10]
- :海軍が小笠原近海などで大演習。硫黄島に滑走路を仮設
- 1934年(昭和9年)12月:砲台残工事再開・備砲工事着手
- 1937年(昭和12年)
- 4月:洲崎に海軍飛行場が完成
- 6月:夜明山と旭山の頂上にある通信施設を拡充[注釈 11]
- 1939年(昭和14年)
- 4月:父島海軍航空隊新設
- 8月:小笠原近海で海軍大演習実施
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 1944年(昭和19年)
主要な施設
[編集]- 大村第1砲台
- 大村第2砲台
- 大村第3砲台
- 大村第4砲台
- 巽谷砲台(1940年着工)[3]
- 大根岬電燈
- 清瀬弾薬本庫
海軍施設
- 二見海軍燃料貯蔵場(清瀬重油槽)
- 清瀬電信山送信所
- 夜明山通信隊送信所
- 夜明平 父島海軍航空隊送信所
- 大根山 父島海軍航空隊監視壕
- 洲崎海軍飛行場
- 旭山電波探信義
- 旭山防空砲台(8糎高角砲・12糎高角砲)
- 小港平射砲台(14糎砲)
- 奥村平射砲台
- 海軍宮之浜平射砲台(12糎高角砲)
歴代司令官
[編集]- 不明:1923年4月 -
- 安達十六 中佐:1925年5月1日 -
- 吉田二郎 中佐:1927年8月2日 -
- 原田芳雄 中佐:1928年8月10日 -
- 藤崎芳一 大佐:1932年8月8日 -
- 荘司久吉 大佐:1933年8月1日 -
- 富士井末吉 歩兵大佐:1934年8月1日 - 1935年8月1日[4]
- 西村勝美 歩兵大佐:1935年8月1日[4] -
- 菰口貞造 大佐:1936年8月1日 -
※この間不明。
- 川上護 中佐:1941年1月25日 -
- 木村直樹 予備役少将:1942年9月1日 - 1944年2月14日[5]
- 大須賀応 少将:1944年2月14日 - 1944年5月 日 ⇒ 小笠原地区集団の第109師団混成第2旅団長へ
注釈
[編集]- ^ (理由) 近時軍艦の攻防装備著しく進歩せる結果、父島要塞大村第一砲台の二十四糎榴弾砲は本要塞の任務に鑑み、その威力少々微弱にして少なくも三十糎以上の大口径砲を必要とす。しかれどもすでに予算計画の了せる今日、にわかにこれを変更するを得ざるべきをもって、国防上 一時比較的忍び得べき奄美大島嘉鉄第一砲台の三十糎榴弾砲とあれこれ交換し、後日整理、 余裕を得て奄美大島東方面の二十四糎榴弾砲を三十糎長榴弾砲に変更するを可とす。
- ^ a b (理由) 大村第二、第三砲台はその任務上二見港に対する敵艦艇の動作の極力妨害せざるべからず、 しかるに本砲台は露天にして外海並びに上空より瞰望(かんぼう)せられやすく、過早に敵火の損害を受くるおそれあり、ゆえに火砲を援護し確実にその任務を達成せんがためには砲塔となすを可とするも、経費の関係上実行困難なるをもって、むしろ待機期間はなるべく掩蔽を確実ならしめ、所要の時期に臨み迅速に戦闘位置につかしむる処置の講ずるを可とす。 目下十五糎加農移動砲架に関しては技術本部において研究中にして近々実現せらるべきをも って、将来その制定を待って移動砲架と交換するを可とす。
- ^ 大村第三、第四砲台は大正11年度以降においてその建築の開始する計画なりしが、大正10年11月米国ワシントンにおいて世界平和会議開催せられ、同会議の進行に連れて海軍軍備制限のため、太平洋防備は現状を維持し、将来防備の増進を行わざるごとくなるの情勢現れ始めたるをもって、その以前になるべく施設を増備し置かんがため、にわかに第三、第四砲台を起工することとなり、同年12月その工事を開始せられたり。
- ^ 工事中止当時の現状は竣工図書及び履歴表により明らかなるごとく、いずれの砲台も軍道、砲座(砲床未完)及び一部の補助建設物等の構築に止まり、備砲作業は実施にいたらず。しかし条約締結直前に現状維持となるべき傾向現れたるをもって、現地の支部にては本部長の指示に基づ き急速に偽砲を備え備砲完了をもって現状たらしむるごとく実施したるも、全権委員とわが中央部との連携その点まで運ばざるうちに条約調印となり、火砲は内地に準備しありというをもって現状とすることとなれり。
- ^ 工事中止の築城部支部は大正11年8月その編成を著しく縮小して大部の職員は新たに 開始の要塞地に設けらるる築城部本部臨時派出所(大正12年4月1日支部に改編)の職員に充用せらるることとなり、父島支部職員の大部は鎮海湾要塞の要塞整理事業のため、築城部本部釜山臨時派出所要員に当てらる。
- ^ 父島要塞の兵備は工事中止の関係上予備兵器として左記のごとく計上せらる。 ・七年式三十糎榴長 4 (大村第一砲台用) ・七年式十五加 8 (大村第二、第三砲台用) ・十一年式七・五加 4 (大村第四砲台用) ・野砲 14(うち 2 は改造三八式高射野砲) ・山砲 8 ・一五臼 2 ・九臼 4 ・機関銃 8 ・高射機関銃 4
- ^ 工事中止後における当要塞は一部の防御営造物を有するのみにして、要塞防備の骨幹たる火砲、その他の兵器は1つとしてその備えなく、ただわずかに要塞地帯法により軍機保護上の取り締まりを行うにとどまり、はなはだ寂寥たるものなりしが、かくては有事の際非常なる不利を生来せしむるのおそれあるをもって、何らかの手段を講じ国際法に触れざる範囲において施設の面目を新たならしむるの方針の下に、毎年の新営費およびの修繕費の配当を顧慮し、また昭和2、3年の頃よりかつて築城支部にて工事実施中に設備したる仮設物の貯水場、観測所、薬莢庫、砲廠、油庫、器材置場、掩廠部、炸薬填実所付属火薬置場、弾廠、砲具庫、清涼火薬庫、乾燥火薬庫、監守衛舎等の名称を付して防御営造物として国有財産に編入の手続きをとり、その後機を見てこれら営造物の改築あるいは補修を行い、あるいはまた風水害に便乗して災害復旧費の運用を計るなど 各種の手段を用い逐次改善を計られたり。 これらの手段により構築せられたるものは竣工図書および履歴表に記載せられあるが、今その 主たるものを掲げたれば下(原文・左)のごとし。 1、大村第一砲台 観測所 5(林投山、三日月山、高山、家内崎、巽崎)、 監守衛舎、貯水所、砲廠、油庫、砲側庫(改)、砲座(改) 1、大村第二砲台 観測所 1、弾廠、貯水所 薬莢庫、砲側庫(改)、砲座(改) 1、大村第三砲台 観測所 1、貯水所、胸墻(きょうしょう・胸壁など盛り上げたもの)(改) 監守衛舎、貯水所、砲廠、油庫、砲則庫(改)、砲座(改) 1、清瀬弾薬本庫 清涼弾薬庫 1、乾燥弾薬庫 1、未填薬弾丸庫 1、監守衛舎、薬莢庫、 火薬試験所、炸薬填実所付属火薬置場
- ^ 貯蔵場は昭和19年(1944)2月に父島軍需支庫と改称された
- ^ ワシントン条約の関係上、「東京府第1農場」と称して農業試験地の造成という名目で施工した。
- ^ 修正計画にては予備火砲.中に九〇式二十四列車加農 2 門を新たに配当
- ^ 偵察機や爆撃機を欺く為,通信施設に隣接した幾つかの建物は,校門と二宮尊徳像を正面に設置して学校に「偽装」された
- ^ 昭和15年度陸軍動員計画訓令細則付表に示す兵器を発送。 ・四五式二十四糎榴弾砲 四門 (大村第一砲台) ・四五式十五糎加農砲 二門 (大村第二砲台) ・三八式十二糎榴弾砲 四門 (巽谷砲台) ・十一年式七糎加農砲 四門 (予備大砲) ・鋼製 九糎臼砲 四門 (予備大砲)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 浄法寺朝美『日本築城史 : 近代の沿岸築城と要塞』原書房、1971年12月1日。NDLJP:12283210。
- 歴史群像シリーズ『日本の要塞 - 忘れられた帝国の城塞』学習研究社、2003年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 外山操・森松俊夫編著『帝国陸軍編制総覧』芙蓉書房出版、1987年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 小笠原要塞
- よりしろのふ・帝国陸海軍現存兵器一覧 - 小笠原 父島・母島・硫黄島 - ウェイバックマシン(2013年2月1日アーカイブ分)