大黒清勝
大黒 清勝(おおぐろ きよかつ、1726年〈享保11年〉 - 1790年3月28日〈寛政2年2月13日〉)は、土佐藩士、日本の武道師範。無双直伝英信流居合術第11代宗家[1]。字は「元右衛門」[2][3]。長曾我部氏の支流で、本姓は秦氏。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]享保11年(1726年)、土佐藩士(馬廻役・300石)・大黒好勝(文之丞)の三男として土佐国高知城下(現・高知県高知市)に生まれる[4]。
武士の嗜みとして、無双直伝英信流居合を、林安太夫政詡より習う[3]。
安永6年(1777年)、馬廻組頭、天明2年(1782年)大目付(大監察)切支丹改役、翌年(1783年)、軍備御用兼帯となる[4]。
長谷川英信流居合の伝書を林安太夫政詡から受け、第11代宗家となる[5]。
寛政2年2月13日(1790年3月28日)歿、享年65歳[4]。
墓は、高知県高知市小高坂平和町(福井へ越える峠の西の峰頂北側)にある[4]。
清勝が林安太夫政詡から授かった居合の伝書は、林安太夫の孫である林益之丞政誠に伝えられた[5]。
家族
[編集]大黒家の先祖は長曾我部氏の支流で、杓田城主・大黒太郎左衛門範宗に出づ[6]。本姓は秦氏。先祖・大黒主計頭(おおぐろ かずえのかみ)は、長曾我部氏の麾下で知行1000石を領したが、天正14年(1586年)、豊後戸次川の合戦で、長曾我部信親と共に討死した[6]。主計頭の嫡子・大黒勝正(茂左衛門、隠居後「宗哲」)は、元和9年(1623年)、山内氏に召抱えられ、御納戸役等をつとめ、寛文3年(1663年)、馬廻役150石(上士)に列せらる[6]。さらに勝正(茂左衛門)の次男・大黒衡勝(文之丞)の時、御扈従200石として別家召出された。勝正の跡を嫡子・大黒好勝(文之丞)が嗣ぎ、大目付となって家禄100加増され、都合300石を食んだ[4]。
- 高祖父:大黒主計頭
著名な門人
[編集]補註
[編集]参考文献
[編集]- 『江戸期の土佐における居合関係史』
- 『土佐武道史話』平尾道雄著、高知新聞社、1961年
- 『土佐 武道と仇討ち 平尾道雄選集(第4巻)』平尾道雄著、高知新聞社、1980年
- 『師伝芥考・土佐の英信流』岩田憲一著、1984年(昭和59年)
- 『土佐の墓(2)』山本泰三著、土佐史談会、1987年(昭和62年)
- 『御侍中先祖書系圖牒』旧山内侯爵家蔵(高知県立図書館寄託文書)
- 『板垣精神』一般社団法人 板垣退助先生顕彰会 編纂、2019年、ISBN 978-4-86522-183-1 C0023
関連項目
[編集]
|