天谷虎之助
天谷 虎之助(あまがい とらのすけ、1889年2月17日[1] - 1977年3月6日[2])は、内務官僚。第6・7代茨城県土浦市長。
経歴
[編集]茨城県出身。茨城県立土浦中学校、第二高等学校を経て、1913年(大正2年)、東京帝国大学法科大学政治科を卒業した[1][3]。高等文官試験に合格し、愛媛県属、同警視、同周桑郡長、同理事官、宮崎県理事官、福岡県理事官、福島県警察部長、岡山県警察部長、愛知県警察部長、京都府警察部長、秋田県内務部長、群馬県内務部長、福井県内務部長を歴任し、勅任官待遇となった[1][3]。1932年(昭和7年)、退官[3]。
戦後は茨城県監査委員を務め[1]、1951年(昭和26年)、土浦市長に初当選し1959年(昭和34年)まで2期務めた[4]。
その後、1977年(昭和52年)まで土浦信用金庫(現在の水戸信用金庫)理事長を務めた[1]。1977年、土浦市の病院で死去[2]。
ウシ・トラ合戦
[編集]昭和26年4月28日執行の統一地方選挙に同時に立候補したのが、天谷丑之助である。両者とも市内木田余の出身で、奇しくも名前が一字違い、誕生日も一日違いであった。選挙は全国紙にも取り上げられ、県南の中心都市の選挙は話題をさらった。立会演説会では壇上に上がれないほどの大盛況であったが、市医師会等の運動が奏功し虎之助が初当選した。4年後に両者は再び市長選挙に立候補し、大激戦の末に連続当選を果たした。更に4年後には両者のみが出馬し文字通り一騎打ちの様相を呈したが、丑之助が雪辱を果たし2度目の当選を決めた。青年時代から政治を志し、豪放磊落の丑に対し、東大から官僚を務め実務型の虎とは、政治手法も異なり議会も巻き込み、数十年に亘り市政を二分した。
編書
[編集]- 『現代農村の傑出人物』(集文堂、1942年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 校友調査会編『帝国大学出身名鑑』校友調査会、1932年。
- 『日本の歴代市長 第1巻』歴代知事編纂会、1983年。