コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

奈須恒徳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奈須 恒徳(なす つねのり、安永3年(1774年) - 天保12年(1841年)は、江戸時代医師

来歴

[編集]

字は士常、通称は玄盅、号は柳村幕府の医官である田沢安久の二男として生まれる。寛政4年(1792年)に同じ医官である奈須恒隆の婿養子となり、奈須家を継ぐ。

19歳で多紀家の医学館に入り、多紀元徳(藍渓)と多紀元簡(桂山)に学ぶが、その学流の考証学に満足できなかった。奈須家の祖先である恒昌が曲直瀬道三(一渓)門下だったことから[1]。 「此國ニ生レテハ自ヲ此國ノ風アレバナリ。且つ祖トスル所ハ一渓先生ナリ、 己ニ一渓學ヲ宗トスル以上ハ唐山ノ書籍ハ一層隔タル趣アリ、夫故ニ國ノ医書ニ専パラ心ヲ用ヒタリ。」と抱負を述べて[2]、古医書の研究に専念した[3]

一渓道三流を宗とし、古医書の探討、校正に尽力、室町時代、それ以前の医書約35部を補修した。古医書の保存に尽力したのみならず、『本朝医談』など多くの医学に関する著述を残した[4]。『本朝医談』の序は大石千引[5][6]、『本朝医談二編』の序文は天野政徳が書いている[7]

尾張藩医第五代浅井図南の『扁鵲倉公列伝割解』(史記第105巻)を補修するなど、漢文学にも詳しかった。代の王叔和による脈診書である『脈経』、紀元280年皇甫謐によって書かれた現存する最古の鍼灸医学書『甲乙経』、漢方で薬用とする植物をまとめた『本草学』、陰陽五行・鍼灸・脈に関する中国最古の医書『素問』の講義を集めた『四経講義』を文政元年(1818年)に書いている[8]

系譜

[編集]

奈須家は式部少丞家恒が、明応元年(1492年)に後土御門天皇によって越前守に任ぜられ、代々外科を業とした。

  • 奈須恒昌 民部卿、玄竹、久昌院、御医。曲直瀬道三に就き医を学び、寛永10年(1633年徳川秀忠に拝謁し、以降の奈須家当主は代々久昌院を名乗る。正保4年(1647年法眼に叙し、萬治2年(1659年)に法印に進んだ[9]
  • 奈須恒孝 恒昌の子、玄格、御医。慶安4年(1651年徳川家綱に拝謁、父・恒昌に先立つ。
  • 奈須恒干 恒孝の子、春竹、玄竹、兵部卿。元禄12年(1699年)法眼となる。岳父は典薬頭の今大路兵部大輔親俊(曲直瀬玄朔曽孫)。
  • 奈須良音 恒干の子、番医。享保7年(1722年徳川吉宗にはじめて拝謁。
  • 奈須良種 良音の婿養子、番医。実父は奥医師・内田玄寿惟言(法眼、内田宗春家6代、奥医師・坂上池院宗説(法印)の弟・坂宗真の三男[10]
  • 奈須恒隆 良種の子、恒徳の岳父。

著書・編書

[編集]

脚注

[編集]