奈須恒徳
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奈須 恒徳(なす つねのり、安永3年(1774年) - 天保12年(1841年)は、江戸時代の医師。
来歴
[編集]字は士常、通称は玄盅、号は柳村。幕府の医官である田沢安久の二男として生まれる。寛政4年(1792年)に同じ医官である奈須恒隆の婿養子となり、奈須家を継ぐ。
19歳で多紀家の医学館に入り、多紀元徳(藍渓)と多紀元簡(桂山)に学ぶが、その学流の考証学に満足できなかった。奈須家の祖先である恒昌が曲直瀬道三(一渓)門下だったことから[1]。 「此國ニ生レテハ自ヲ此國ノ風アレバナリ。且つ祖トスル所ハ一渓先生ナリ、 己ニ一渓學ヲ宗トスル以上ハ唐山ノ書籍ハ一層隔タル趣アリ、夫故ニ國ノ医書ニ専パラ心ヲ用ヒタリ。」と抱負を述べて[2]、古医書の研究に専念した[3]。
一渓道三流を宗とし、古医書の探討、校正に尽力、室町時代、それ以前の医書約35部を補修した。また、古医書の保存に尽力したのみならず、『本朝医談』など学の著述を多く残した[4]。『本朝医談』の序は大石千引が[5][6]、『本朝医談二編』の序文は天野政徳が書いている[7]。
尾張藩医第五代浅井図南の『扁鵲倉公列伝割解』(史記第105巻)を補修するなど、漢文学にも詳しかった。晋代の王叔和による脈診書である『脈経』、紀元280年に皇甫謐によって書かれた現存する最古の鍼灸医学書『甲乙経』、漢方で薬用とする植物をまとめた『本草』、陰陽五行・鍼灸・脈に関する中国最古の医書『素問』の講義を集めた『四経講義』を文政元年(1818年)に書いている[8]。
系譜
[編集]奈須家は式部少丞家恒が、明応元年(1492年)に後土御門天皇によって越前守に任ぜられ、代々外科を業とした。
- 奈須恒昌 曲直瀬道三に就き医を学び、寛永10年(1633年)徳川秀忠に拝謁、以降は代々久昌院を名乗り、正保4年(1647年)法眼に叙し、萬治2年(1659年)に法印に進んだ[9]。
- 奈須恒孝 恒昌の子。慶安4年(1651年)徳川家綱に拝謁、父・恒昌に先立つ。
- 奈須恒干 恒孝の子。兵部卿、元禄12年(1699年)法眼となる。岳父は典薬頭の今大路兵部大輔親俊(曲直瀬玄朔曽孫)。
- 奈須良音 恒干の子。享保7年(1722年)徳川吉宗にはじめて拝謁。番医。
- 奈須良種 良音の婿養子。実父は奥医師・内田玄寿惟言(内田宗春家6代、法眼)
- 奈須恒隆 恒種の子、恒徳の岳父。
著書・編書
[編集]脚注
[編集]- ^ 日本医史学会編『中外医事新報』(1199),奈須恒德の墓 慶應義塾大學敎授 / 藤浪剛一/361,日本医史学会,1933-09
- ^ 『日本医史学雑誌』46(4)(1500),p571,日本医史学会,2000-12
- ^ 『刀圭新報』2(12), 奈須柳村先生(承前) / 富士川子長/p458~462,日本医師協会事務所,1911-07.
- ^ 富士川游 著『医史叢談 : 科学随筆』,「奈須柳村に就いて 江戸時代末期に於ける醫家の書誌學者」P217~225,書物展望社,昭和17
- ^ 『日本医史学雑誌』46(4)(1500),日本医史学会,2000-12
- ^ 『本朝医談』,伊勢屋忠右衛門,文政5
- ^ 『本朝医談二編』,刊,文政13刊
- ^ 『刀圭新報』2(12), 奈須柳村先生(承前) / 富士川子長/p458~462,日本医師協会事務所,1911-07.
- ^ 寛政重脩諸家譜 第7輯 P338~340