内田宗春
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内田 宗春(うちだ そうしゅん、元亀3年(1572年) - 明暦3年1月29日(1657年3月13日))は、安土桃山時代・江戸時代の医師。
来歴
[編集]歴代にわたり江戸幕府の医官を務め、法眼、法印を拝命した内田家の初代である。姓は藤原、父の元庵、元安。号は正俊とも称す。遠州相良の出身で、父の黙庵が京都で医師を始めたと伝えられている。幼いころより内田左京に養育され、初代曲直瀬道三の門弟となる。道三の後継者である曲直瀬玄朔にも就いて医学を学んだ。
小早川秀秋に仕えたため一時は処士となっていたが、その後召されて徳川家光に仕えた[1]。明暦3年1月29日(1657年3月13日)没。曲直瀬家が深く関わり、曲直瀬門下の墓が集まる祥雲寺を内田家代々の墓地とした[2]。
歴代当主
[編集]- 2代・内田玄勝千里(1592年 - 1681年11月9日(天和元年9月29日))大蔵卿、薬樹院、法眼、法印。寛永元年(1624年) 駿河台大納言徳川忠長に就き、法眼に叙された。寛文元年(1661年)に徳川光圀の治療のため水戸に赴く。寛文5年(1665年)に法印となり、守澄法親王に従い京都に上り、延宝5年(1677年)致仕。宮中より薬樹院、徳川家綱より福禄寿の画、東福門院より銀の厘秤を賜った[2][3]。
- 3代・内田玄策正頼(1643年 - 1706年)求之助、玄策。寛文9年(1669年)6月、徳川家綱に拝謁、元禄元年(1688年)致仕。 妻は曲直瀬親俊(玄淵)の娘。
- 4代・内田玄勝正純(1656年 - 1721年)大次郎、玄庵、玄勝。二代千里の五男だが、三代長男の正甫が早世したため継承。
- 5代・内田玄勝正秀(1679年 - 1750年)玄信、玄勝、法眼、四代の養子。享保3年に跡を継ぐと、翌年番医、奥医師に列した[1]。徳川吉宗の信頼を得たことで、職務を解かれた後も出仕して、将軍の目通りを願う自由を得た。
- 6代・内田玄寿惟言(1709年 - 1760年)又八、元寿、玄寿。法眼。奥医師・坂上池院宗説(法印)の弟・坂宗真の三男で[4]、5代・正秀の婿養子となる。享保14年(1729年)徳川吉宗に拝謁。奥医師。
- 二女は寄合医師・坂上池院宗恭の妻
- 7代・内田玄勝正啓(1729年 - 1776年) 6代・惟言の長男。金吾、玄勝と称す。法眼。寛延元年(1748年)11月、徳川家重に謁見。宝暦10年(1760年)8月に家督を継いで、二の丸の奥医師に列し、法眼に叙せられる。翌年本城に勤務[1]。明和5年11月17日(1768年12月25日)には九代大橋宗桂と将棋を囲んだ[5]。
- 8代・内田玄勝明保(1760年 - 没年不明)藤次郎、玄庵、玄勝。兄・正豊が早逝のため正啓の後を継ぐ。徳川家治に謁見[2]。
脚注
[編集]- ^ a b c 呉秀三「滙纂 杏壇訪古(續)」『神経学雑誌 = Neurologia』31巻3号、日本神経学会事務所、1929年11月、p.194
- ^ a b c d 小曽戸洋「都下医家名墓散策 (9) 内田宗春一族」『漢方の臨床』35巻10号(通巻410号)、東亜医学協会、1988年10月、p.74
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第6輯,P292~293,國民圖書,1923
- ^ 香取俊光『日本医史学雑誌』第45巻P451,「江戸幕府の医療制度に関する史料(9)坂四家の『官位家譜』など」1999年
- ^ 瀬越憲作(編)『御城碁譜』巻之5、御城碁譜整理配布委員会、1951年、p.132
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第7輯,P841,國民圖書,1923
- ^ 香取俊光『日本医史学雑誌』41巻4号「江戸幕府の医療制度に関する史料(6) : 鍼科医員島浦(和田)・島崎・杉枝・栗本家『官医家譜』など」日本医史学会、1995年12月20日、pp.605 - 615
- ^ 『寛政重脩諸家譜』第3輯,p992,國民圖書,1923
- ^ 土屋政一『土屋氏族の系譜』、P90、土屋氏族史調査所、1974年
- ^ 小川春興 著 ほか『本朝鍼灸医人伝』,P50,半田屋医籍部,昭和8年