妹川
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妹川(いもかわ)
地名
[編集]その他
[編集]- 朝倉町征西将軍宮御在所御墓所考証の元亀3年8月彼岸妹川村大山積命神禮敷板銘に「福岡県浮羽郡浮羽町妹川村を巨瀬氏の同族である妹川朝臣が墾田したので、この地名を妹川と呼ばれた。」と記載があり、この妹川朝臣の一族とも言われている。妹川村には、妹川満願の城趾もある。また、星野家譜によれば、鎌倉時代から戦国時代まで福岡県八女郡星野村及び浮羽郡の一部を領地として治めていた星野氏一族に南北朝時代には妹川蔵又利和が、そして戦国時代に妹川左七郎友宗がそれぞれ仕えていた。また、本能寺の変の前年の1581年(天正9年)には、星野一族と対立していた問註所一族が芋河村に押し寄せ、悪党の一人であった芋河新左衛門を討ち取ったと問註所家譜文書に記述されていることから、芋河の姓で古文書に登場していたこともある。そして、1586年岩屋城の戦いにおいて、島津氏の配下として戦に参加した星野一族は、234名の戦死者と53名の重傷者を出しながらも、高橋紹運が守る岩屋城を落城させ、その後も約300名の郎党と共に城を守った。しかし、立花城を守る立花氏から反撃を受けた星野一族郎党は、島津氏が豊臣秀吉の九州南下に恐れて早々に鹿児島に帰ってしまったため、岩屋城で全員玉砕した。星野一族は、豊臣秀吉の九州分割により四散し、妹川一族も朝倉町に逃げたと伝えられている。妹川一族の家紋は、丸に四方花剣菱である。