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嫁盗み

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

嫁盗み(よめぬすみ)は、長崎で行なわれた風習。媳婦盗(よめごぬすみ)[注釈 1]とも言われる。西日本、特に九州地方で同様なことが行われていた[1][2][3][4]

長崎県では明治時代まで嫁盗みが行われたところもあり、「嫁盗み籠」と呼ばれるものも残されていた[注釈 2][1]

嫁盗みの背景

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この風習は、女性を誘拐、略奪するというわけではなく、社会的な制約があったため、または経済的な理由からとられた方法だった[1][3]

大きく分けて3つの種類があり[1]

  1. 両親が話し合いの上、本人同士も了承している場合。
  2. 娘の親が承諾していないが、本人同士が認めあっている場合。
  3. 下女や召使を盗む場合。これは雇い主に了解を求める場合と、そうでない場合とがあった。

相手の娘が何も知らずにいきなり連れて行かれることもあったが、2.の場合には男ではなく娘の方から(自分を)盗んでくれと頼むこともあった。さらに、娘もその家族も同意していても、隣近所への義理合いや、婚礼費が用意できないなどの事情で、通常の婚礼が行えない時に、(娘を)盗まれるという形で済ませようとしたこともあった[2]

女性の連れ出し

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特に定まった日があるわけではないが、11月や12月の間に多く行なわれた[3]。女性の連れ出しを実行するのは、集落内の「わっかもん(若者)」と呼ばれる者達だった[1]

ある男性に、妻にしたい女性がいた時、知人友人にその女性を盗む(連れ出す)よう頼むと、彼らは吉日を選んで娘の住家の近所に向かい、夜間にその娘を誘い出して用意した駕籠に乗せる。そして「よめご盗み よめご盗み」と連呼しながら連れ去った。町の人はそれを止めるどころか家から出てきて見ようともしない。娘の家人が止めようとすると、かえって野次馬たちがそれを遮った[2][3]

盗み出す際には、あらかじめ娘を迎えるための酒食の準備などもしておき、盗み出した後には人を立てて娘の親元へもあいさつに行った。盗まれた側の家からは、「取り戻し」と呼ばれる口利きの男女が3人ずつ出向くが、ほとんどの場合は彼らは酒肴を受けて帰り、親の側もそれで黙認した[3][5]。しかし、娘の親がどうしても承知せず、娘を取り戻すために訴え出ることもあった[4][6]

一方的に「嫁」を盗むこともあったが、意に添わない場合は娘は夜明けまでに逃げ帰った。盗み出した「婿」は面目が立たないので、すぐにほかから盗むこともあった[3]

処罰

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長崎奉行金沢千秋は嫁盗みを禁止し、嫁盗みをする者は召し捕って重罰に処する旨、御触を出した[4]

北馬町の源七と桶屋町のセキは恋文を交わすほどの仲だったが、セキの父親が2人の仲を認めてくれそうになかったため、源七は仲間4人に嫁盗みをしてもらった。父親は娘を返してくれるよう懇願したが源七が承知せず、セキも家には戻らないと拒んだため、父親は奉行所に訴え出た。その後の判決は、

となった[注釈 3][4]

関連項目

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『長崎名勝図絵』巻之五下。
  2. ^ 南高来郡北有馬町。
  3. ^ 『犯科帳』より。

出典

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  1. ^ a b c d e 「嫁盗み」長崎新聞社長崎県大百科事典出版局『長崎県大百科事典』、870頁。.
  2. ^ a b c 森永種夫『犯科帳 長崎奉行の記録』岩波書店、99頁。
  3. ^ a b c d e f 「嫁盗み」下妻みどり編『川原慶賀の「日本」画帳 シーボルトの絵師が描く歳時記』 弦書房、179頁、236-237頁。
  4. ^ a b c d 本田貞勝『長崎奉行物語』 雄山閣、145-146頁。
  5. ^ 森永種夫『犯科帳 長崎奉行の記録』岩波書店、100頁。
  6. ^ 森永種夫『犯科帳 長崎奉行の記録』岩波書店、100頁。

参考文献

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  • 下妻みどり 編『川原慶賀の「日本」画帳 シーボルトの絵師が描く歳時記』弦書房、2016年7月。ISBN 978-4-86329-136-2 
  • 本田貞勝『長崎奉行物語 サムライ官僚群像を捜す旅』雄山閣、2015年1月。ISBN 978-4-639-02346-3 
  • 森永種夫『犯科帳 長崎奉行の記録』岩波書店、1962年1月。ISBN 4-00-413108-1 
  • 長崎新聞社長崎県大百科事典出版局 編『長崎県大百科事典』長崎新聞社、1984年8月。全国書誌番号:85023202