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津田仙

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学農社農学校から転送)
つだ せん

津田 仙
生誕 (1837-08-06) 1837年8月6日
日本の旗 日本下総国佐倉藩佐倉城
洗礼 1875年1月
死没 (1908-04-24) 1908年4月24日(70歳没)
日本の旗 日本東海道本線の車内
墓地 青山霊園
国籍 日本の旗 日本
職業 武士農学者教育者
配偶者 津田初子(津田初)
子供 上野琴子、津田梅子、八朔(津田元親)、次郎、金吾、銀吾、ふき子、純(和田純)、まり子、よな子(安孫子余奈子)、きよ子、とみ子
父:小島良親(善右衛門)
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津田 仙(つだ せん、1837年8月6日天保8年7月6日〉 - 1908年明治41年〉4月24日)は、日本の農学者キリスト者学農社創立者[1]青山学院大学[1]筑波大学附属盲学校普連土女学校[2]の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、キリスト教界の三傑とうたわれた。明六社会員。娘に津田梅子津田塾大学を創設)、余奈子(アメリカに移住し、日本語新聞『日米新聞』を発行しサンフランシスコの日系人社会のリーダー的存在だった安孫子久太郎[3][4]と結婚)などがいる。

経歴

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佐倉城内に生まれる。父は下総国佐倉藩堀田氏の家臣小島良親(善右衛門[注釈 1])3男に生まれる。幼名は千弥、仙弥[6]嘉永4年(1851年)、元服して桜井家の養子となる。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子となる。

15歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で学び、藩主堀田正睦の洋学気風もあり、藩命でオランダ語英語の他、洋学や砲術を学ぶ。安政2年(1855年)に出仕し、江戸では蘭学塾へ入門すると森山栄之助の下で英語などを学ぶ。文久元年(1861年)外国奉行の通訳として採用された。慶応3年(1867年)、小野友五郎江戸幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのに伴い、幕府の小野使節団の一員として福澤諭吉尺振八と津田の3名が通訳として随行する[7]。帰国後、新潟奉行に転役して、通弁・翻訳御用、英語教授方に就き、戊辰戦争では幕府側として越後へ出向くが、敗れて長崎を経て東京へ戻る[8]

津田仙の娘梅子

明治維新が成ると官職を辞して、明治2年(1869年)には築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。明治4年(1871年)には政府が設立した開拓使の嘱託となり、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆が企画し、政府派遣の岩倉使節団に女子留学生を随行させると聞くと、娘の梅(のち梅子に改名)を応募する。使節団が出発した翌月には開拓使を辞職。

民部省に勤めたのち、明治6年(1873年)には、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民日本赤十字社の創設者)の書記官として随行[注釈 2]。オランダ人農学者ダニエル・ホイブレイクの指導を受け、帰国後の明治7年(1874年)5月に口述記録をまとめて『農業三事』として出版した[10][11]。津田がウィーン万博から持ち帰ったニセアカシア種子は、その後明治8年(1875年)に大手町に植えられ、これが東京初の街路樹となった。

明治7年(1874年)、米国メソジスト監督教会婦人宣教会から日本に派遣されたドーラ・E・スクーンメーカーによる女子小学校(後の海岸女学校)の創立に協力。明治8年(1875年)1月、同じく米国メソジスト監督教会で後に青山学院神学部教授も歴任したジュリアス・ソーパー宣教師によりメソジスト派信者として妻の初と共に洗礼を受ける。また、古川正雄らと共に盲聾唖者の教育のため楽善会を組織する。明治9年(1876年)には東京麻布に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学農社を設立、その一環として農学校も併設した。キリスト教指導も行う。

学農社雑誌局発行の『農業雑誌』で、明治9年(1876年)にアメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始め、これが日本で最初の通信販売といわれている。1月、女工場を開設[12]、続いて栗原信近に招かれワイン醸造技術指導のため甲府を訪れている。また、1890年には東北を視察してリンゴ二十数種を東京に持ち帰り、当時珍しかったマスコミ向けの試食会を行なった[13]

明治16年(1883年)5月には第三回全国基督教信徒大親睦会[注釈 3]の幹部として活躍する。

第三回全国基督信徒大親睦会の幹部の記念写真(鈴木真一の写真館で撮影、1883年5月12日)

足尾鉱毒事件では田中正造を助け[16]、農民救済運動に奔走した。明治30年(1897年)には事業を次男に譲り引退、鎌倉で過ごす。明治41年(1908年)、東海道本線の車内で亡くなっている所を発見された。死因は脳出血であった[18]。享年72(満70歳没)。葬儀は青山学院の講堂で行われた[19]

没後、内村鑑三新渡戸稲造らは追悼文を発表し、津田の事業を讃え、仙を「大平民」と呼んだ[20]

墓所は青山墓地

学農社

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1875年(明治8年)9月1日、麻布東町23番地に学農社を開業した[21]。西洋種苗頒布ならびに『農業雑誌』の発行、農学校の経営に従事する[22]。1876年(明治9年)に校舎落成[23]と同誌の創刊、1877年(明治10年)、麻布新堀町2番地西に移転。1898年(明治31年)、仙が引退すると次男の次郎が社長を後継した。

出版事業は、「民間自由の一大農誌」として定期刊行物『農業雑誌』を1876年(明治9年)に創刊、新しい知識を得て各地に現われた果樹栽培や種苗農家は、農学校卒業生の助けを借りることになる。また、この農業専門雑誌には投稿者や読者が集い、それぞれが生活する場所にありながら、農学校で津田が進めようとした「新しい技術・知識」の共有と新たな時代への対応を、誌面を通じて享受する[24]。津田が唱えた「農は百工の父母」あるいは「自由を重し」とする精神は受容の度合いに差はあれ、各地へバトンタッチされていく[25]。1916年(大正5年)7月、宇喜多秀穂が社長を引き継ぐ。1921年(大正9年)、『農業雑誌』最終号を出版。

学農社農学校

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学生数の推移
西暦(年) 0明治 学生数(人) 備考
1875 08 012
1876 09 035
1877 10 053
1878 11 070
1879 12 145
1880 13 167
1881 14 175
1882 15 080
1883 16 043
1884 17 025
1884 17 0 ※※

1875年(明治8年)9月1日、麻布東町23番地に学農社農学校を設立、農園は麻布本村町178番地にあり、教員1名、学生12名で授業が始まる。本科の修了年限を3年、予科と別科には年限を設けていない。また学内で日曜学校を開催し、フルベッキジュリアス・ソーパー等を講師に招いた。

1876年(明治9年)7月、農園内に新校舎が落成すると教員7名を置き、学生35名が集った[26]。卒業生は各地の勧業課つまり都道府県の産業育成部門に入り、新しい農業の指導に当たる[25]が、明治14年に政変があるとその影響か、翌年、学生数は半減。帝国議会が開設される明治23年を待たず、農学校は1884年(明治17年)12月に10年目に閉校する[27]

農業振興を支える『学農社制規』に定めた「物産興隆の道」である収益部門として、農学校を終えた後も学農社は頒布により西洋苗種を普及させ、卒業生はその栽培指導に努めていく。

教師

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学生(中退者含む)

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50音順


農業雑誌

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1876年(明治9年)1月10日創刊、1920年(大正9年)7月、通号1221号まで続く。創刊号の表紙裏にジョージ・ワシントンの言葉を英語とその漢訳で掲げた。

Agriculture is the most healthful, most useful and most noble employment of man. 農者,人民職業中,最健全,最尊貴,而最有益者也.

津田自身も原稿を寄せており、旧仮名遣いと地名はそれぞれ変えて一部を挙げる。

  • 通号170号「埋渠の説附図、鳥と虫との関係、蕃椒※1の説、家畜の飼料に蘆粟※2を用いて益ある説」[51]※:1=トウガラシ、2=モロコシ
  • 通号282号「酒の害」[52]
  • 通号450号「薔薇の改良に就て」[53]
アメリカ視察について
  • 通号492号「渡米隨見録――(ハワイ島、ハワイ産の果実、サンフランシスコ、四日間の汽車、シカゴ市)」[54]
  • 通号502号「米国観察一斑」[55]
  • 「米国談」1-4、『農業雑誌』第19巻に1894年1月から3月に掲載。(通号504-505号、510-511号)

著作

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単著

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  • 『荷衣伯連氏法農業三事』前川善兵衛・青山清吉、1874年5月。 NCID BN08998719全国書誌番号:40061305 
  • 『酒の害』学農社雑誌局、1887年12月。 NCID BB17381147全国書誌番号:40058810 
  • 『桑樹談話会報告』学農社、1888年12月。 NCID BB24863396全国書誌番号:40062509 
  • 『玉川上水改良并ニ石造導水管ノ効用』[出版者不明]、1892年。 NCID BB11840081 
  • 『朝鮮地名案内』学農社、1894年7月。全国書誌番号:40010311 

演説録

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共著

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  • 岸田吟香、津田仙『精密正確 兵要清韓新地図』(第2版)学農社、1894年12月。 NCID BA9125308X 
  • 津田仙、横山久四郎『輸出作物栽培新書 附・除虫菊ノ培養』学農社、1896年12月。 NCID BA87181666全国書誌番号:40061387 

翻訳

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共訳

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校閲

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脚注

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注釈

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  1. ^ 小島善右衛門の禄高は120石[5]。佐倉藩の勘定頭元締を務めた[5]
  2. ^ 肩書きは万国審査官であった[9]
  3. ^ 演説集[14]ならびに年鑑[15]は、国会図書館によりインターネット公開されている。

出典

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  1. ^ a b 嶋田 2011, 「津田仙と学農社農学校 」
  2. ^ 普連土学園 | 教育理念・沿革”. www.friends.ac.jp. 2022年4月22日閲覧。
  3. ^ 安孫子 1930, pp. 309–312.
  4. ^ Ichikawa, et al. 1984, pp. 61–96.
  5. ^ a b 山崎 1988, p. 5
  6. ^ 国立国会図書館 近代日本人の肖像 『津田 仙』
  7. ^ 幕末・明治のテクノクラート(technocrat:技術官僚)小野友五郎 『7 再度の渡米 小野使節団』
  8. ^ 並松 2013, pp. 85–122.
  9. ^ 新聞集成明治編年史, p. 114, 「ウインナ博覧會の萬國審査官津田仙、農事大改良意見」明治7年1月.
  10. ^ 新聞集成明治編年史 1940, p. 114, (第2巻)「津田仙とホーイブリング三大法」明治7年1月.
  11. ^ 新聞集成明治編年史 1940, p. 204, (第2巻)「米三割增收試驗(津田仙の努力)」明治7年9月.
  12. ^ 新聞集成明治編年史 1940, p. 459, 「津田仙の女工場開業式」(第2巻).
  13. ^ 新聞集成明治編年史 1940, p. 518.
  14. ^ 杉山重義、山鹿旗之進(記)、森本介石 編『日本全国基督教信徒同盟会演説集』(2版)警醒社、明治20年。 インターネット公開
  15. ^ 『基督教年鑑 大正15年』日本基督教連盟、大正14年。 
  16. ^ 松本、津田 1901, 「写真画 津田仙君撮影」.
  17. ^ a b 『農業雑誌』第33巻13(通号1020)、学農社(編)、1908年5月、全国書誌番号:00019396 doi:10.11501/1598760、コマ番号 0016.jp2、0018.jp2-、0024.jp2-、国立国会図書館内/図書館送信。
  18. ^ 「津田仙先生の永眠」、「先生の臨終」206頁、「先生の生涯」208頁-。山鹿旗之進「博愛なる基督信者としての津田先生」214-217頁[17]
  19. ^ 「先生の葬儀」206-207頁 (コマ番号0016.jp2)、本多庸一「無窮の向上――(葬式説教)」213-214頁 (コマ番号0023.jp2)[17]
  20. ^ 嶋田 2010, pp. 91–116.
  21. ^ 新聞集成明治編年史 1940, p. 395, 「津田縄の天覧」(第2巻)明治8年9月.
  22. ^ 新聞集成明治編年史 1940, p. 449, 「津田仙の学農社諸県に分社増設」(第2巻).
  23. ^ 新聞集成明治編年史 1940, p. 461, 「学農社の演説会」(明治9年1月).
  24. ^ 三好信浩「第2編 農業技術の近代化と教育 第3章 農業の近代化政策と教育 §第2節 西洋農業技術の導入過程 §§2 西洋技術の受容」『日本農業教育成立史の研究』(増補)風間書房、東京、2012年。全国書誌番号:22141224 ISBN 978-4-7599-1938-7
  25. ^ a b 加納 2018, pp. 1–17.
  26. ^ 内田 1965, 「津田仙と学農社」.
  27. ^ 加納 2018.
  28. ^ 普連土学園 1987, p. 9.
  29. ^ 加納 2018, p. 9.
  30. ^ a b 全国篤農家列伝 1910, p. 143.
  31. ^ 大坪 1941, p. 144.
  32. ^ 石川県教育委員会, p. 353.
  33. ^ a b c d e 加納 2018, p. 6.
  34. ^ 岳陽名士伝 1891.
  35. ^ a b c 加納 2018, p. 5.
  36. ^ a b 宇喜多翁.
  37. ^ a b c d e f 加納 2018, p. 7.
  38. ^ 三宅, pp. 330–333.
  39. ^ 内藤 1955.
  40. ^ 豊橋市立商業学校 1943, pp. 159–160.
  41. ^ 忠民翁 1911, pp. 4–5.
  42. ^ 小柳津、小柳津、津田 1888.
  43. ^ 鳥取二十世紀梨 1972, pp. 65–69.
  44. ^ 林檎の碑”. sapporo-jouhoukan.jp. 札幌の歴史・文化情報館. 2022年4月22日閲覧。
  45. ^ 丸山 2004, p. 71.
  46. ^ 加納 2018, p. 8.
  47. ^ 新渡戸 1987, pp. &#91, 要ページ番号&#93, .
  48. ^ 静岡県茶業組合連合会議所 1926, p. 1291.
  49. ^ 岳陽名士伝 1891, pp. 1282–1283.
  50. ^ 三宅, pp. 330–3.
  51. ^ 津田仙(演)『農業雑誌』第170号、学農社(編)、1882年11月、705-718頁、doi:10.11501/1597928全国書誌番号:00019396 コマ番号0002.jp2-、国立国会図書館内/図書館送信。
  52. ^ 津田仙『農業雑誌』第12巻31 (通号282)、学農社(編)、1887年11月、482-484頁、doi:10.11501/1598037全国書誌番号:00019396  コマ番号0002.jp2-、国立国会図書館内/図書館送信。
  53. ^ 『農業雑誌』第17巻19(通号450)、学農社、1892年7月、292頁、doi:10.11501/1598177全国書誌番号:00019396  コマ番号0006.jp2、国立国会図書館内/図書館送信。
  54. ^ 津田仙「渡米隨見錄――(布哇島、布哇產の菓實、桑港、四日間の滊車、シカゴ市)」『農業雑誌』第18巻25(通号492)、1893年9月、385-387頁、doi:10.11501/1598221全国書誌番号:00019396  コマ番号0003.jp2、国立国会図書館内/図書館送信。
  55. ^ 津田仙「米國觀察一斑」『農業雑誌』第18巻35(通号502)、1893年12月、545-547頁、doi:10.11501/1598231全国書誌番号:00019396  コマ番号0003.jp2-、国立国会図書館内/図書館送信。

参考文献

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発行年順

関連文献

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関連項目

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外部リンク

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