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ドーラ・E・スクーンメーカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ドーラ・E・スクーンメーカー
青山キャンパス、ベリーホール前石碑
個人情報
出生 (1851-11-14) 1851年11月14日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク州アルスター郡オリーブ町
死去 (1934-12-05) 1934年12月5日(83歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市
墓所 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロサンゼルス市オッドフェローズ墓地(Odd Fellows Cemetery)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
両親 父ジェイコブ (Jacob Schoonmaker)、母ペイシェンス (Patience Schoonmaker)
配偶者 ヘンリー・マーティン・ソーパー (Henry Martin Soper)
子供 デュアン (Duane Soper)
職業 教師宣教師
伝道 日本アメリカ合衆国
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ドーラ・E・スクーンメーカー(Dora E. Schoonmaker、1851年11月14日 - 1934年12月5日)は、アメリカ合衆国メソジスト派の伝道師であり、麻布新堀町にあった「女子小学校」(青山学院大学の源流の一つ)設立者。

人物

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1851年ニューヨーク州アルスター郡オリーブ町でジェイコブ(Jacob)とペイシェンス(Patience)の娘として生まれる[1]

当初は、イリノイ州モリス市において公立学校の教師をしていた。しかし、外国への伝道を志し、メソジスト監督派教会女性海外伝道協会から、1874年10月28日に日本に派遣される(23歳)。彼女は、女性の宣教師としては日本初である。同年、青山学院の最も古い源流であり、明治期の女子教育の開拓的学校である「女子小学校」を麻布本村町の岡田平蔵邸に開設し[2]、帰国するまで校長を務める。同校は、キリスト教批判などの影響から「救世学校」「海岸女学校」と名前を変えることを強いられるが、後年に青山学院へと発展する。

1879年11月3日、5年の任期を終えアメリカへ帰国。ヘンリー・マーティン・ソーパー(Henry Martin Soper、ジュリアス・ソーパーとは別人)と結婚し、息子のデュアン(Duane)が生まれる[1]

その直後に海岸女学校の校舎が焼失した際には、復興のための募金集めに巡行し、再建に尽力した。

1911年に夫を亡くした後ロサンゼルスに移り[3]1934年逝去。墓所はカリフォルニア州ロサンゼルス市ボイルハイツ(Boyle Heights)にあるオッドフェローズ墓地(Odd Fellows Cemetery:3640 Whittier Blvd., Los Angeles, California)[4]

石碑

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彼女の功績を記念して、現在、青山キャンパスのベリーホール前に石碑が建てられている。

脚注

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  1. ^ a b ジャン・W・クランメル (1996年2月25日). 『来日メソジスト宣教師事典』. 教文館. p. 223 
  2. ^ 年表『青山学院女子短期大学六十五年史』
  3. ^ 『日本キリスト教歴史大事典』 教文館、1988年、718頁
  4. ^ Odd Fellows Cemetery

参考文献

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  • ジャン・W・クランメル『来日メソジスト宣教師事典』教文館、1996年2月25日