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デヴィッド・ボウマン・シュネーダー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
デヴィッド・ボウマン・シュネーダー
David Bowman Schneder
D. B. シュネーダー
教会 ドイツ改革派教会
個人情報
出生 1857年2月23日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ペンシルベニア州ボウマンズヴィル英語版
死去 1938年10月5日
日本の旗 日本
宮城県仙台市
墓所 北山キリスト教墓地(仙台市)
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
配偶者 アンナ・M・シュネーダー
子供 ジョン、メアリ、マーガレット
出身校 フランクリン・アンド・マーシャル大学英語版
ランカスター神学校英語版
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デヴィッド・ボウマン・シュネーダー(David Bowman Schneder、1857年2月23日 - 1938年10月5日)は、アメリカ合衆国出身の宣教師で、合衆国・ドイツ改革派教会から派遣され、日本で活躍した。東北学院三校祖のひとり。

来歴

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1857年ペンシルベニア州に生まれる。1882年にフランクリン・アンド・マーシャル大学英語版を卒業し、1879年ランカスター神学校英語版を卒業。その後、アメリカ国内で4年間牧師を務めた。

1887年(明治20年)、ドイツ改革派教会より日本宮城県仙台区1889年より仙台市)に派遣される。1886年(明治19年)に仙台区に開校された仙台神学校(現・東北学院)に赴任し、押川方義W.E.ホーイに協力して仙台神学校の経営を行う。この3名が東北学院の重鎮となる。

1887年(明治20年)に山形県南村山郡山形(1889年より山形市)に開校された山形英学校の英語教師もJ・P・ムーアと共に兼任した。

1889年(明治22年)、宮城県宮城郡七ヶ浜村(現・七ヶ浜町)にF.W.ハーレルらと別荘地(現・高山外国人避暑地)を拓いた。

1901年(明治34年)に、押川の後を継いで東北学院第2代目院長に就任する。在位35年間に、中学部、高等部、神学部を整備し、私塾的な学校を総合的なキリスト教主義教育機関に育て上げた。

1919年大正8年)には旧中学校舎を建設。1923年(大正12年)には新校舎、1926年(大正15年)に専門部校舎、1932年(昭和7年)に礼拝堂を建設した。また、伝道者としても仙台教会(現、日本基督教団仙台東一番丁教会)を設立した。

これらの活動が評価され、フランクリン・アンド・マーシャル大学より名誉神学博士号を授与され、アーサイナス大学より名誉法学博士号を授与された。

日米間を往復して1920年代のアメリカの日系移民排斥問題(排日移民法参照)の解決に取り組んだ。1936年昭和11年)には東北学院の院長を辞任し、名誉院長に就任する。一時帰米ののち1938年(昭和13年)6月再び仙台に戻り、翌月4日に「滞日50年の思ひ出」と題する講演(NHK仙台放送局を通じて全国中継)を行った[1]。同年10月に狭心症で死去。仙台市内のキリスト教墓地に埋葬された。

栄典

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脚注

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  1. ^ 『東北学院百年史』 811-813頁
  2. ^ a b 『東北学院百年史』 803頁
  3. ^ 『東北学院百年史』 577頁

参考文献

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外部リンク

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学職
先代
W.E.ホーイ
東北学院理事長
1900年 - 1936年
次代
E.H.ゾーグ