宇佐川一正
宇佐川 一正 | |
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生誕 |
1849年12月24日 山口県 |
死没 | 1927年11月10日(77歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 18?? - 1908 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 歩兵第20旅団長 |
戦闘 |
西南戦争 日露戦争 |
除隊後 |
東洋拓殖会社総裁 貴族院議員 |
宇佐川 一正(うさがわ かずまさ、1849年12月24日(嘉永2年11月10日[1][2]) - 1927年(昭和2年)11月10日[1][2])は、明治から昭和初期の日本陸軍軍人、政治家、華族。最終階級は陸軍中将。貴族院男爵議員。
経歴
[編集]長州藩士・藤村太郎右衛門の四男として生まれ、宇佐川久平の養子となる[1]。伏水教導隊に入り、下士官試補、権曹長、曹長と昇進し、1874年(明治7年)6月、陸軍戸山学校を卒業し、翌月、歩兵少尉に任官[1][3]。以後、歩兵第14連隊付となり、1877年(明治10年)2月、西南戦争に出征した[1]。歩兵第24連隊大隊副官、歩兵第1旅団参謀、同副官、近衛歩兵第1旅団副官、第1師団参謀、歩兵第17連隊付、監軍部副官、近衛師団参謀などを歴任し、日清戦争には第1軍参謀として出征し、田村怡与造の後任として同軍参謀副長となった[1][2][3]。
近衛師団司令部付、京城公使館付、第10師団参謀長、陸軍省軍務局軍事課長などを経て、1901年(明治34年)4月、陸軍少将に進級[1][3]。歩兵第20旅団長を経て、日露戦争時の軍務局長を務めた[1][2][3]。1906年(明治39年)7月、陸軍中将となり、1908年(明治41年)12月、予備役に編入された[1][2][3]。1911年(明治44年)11月10日、後備役となる[4]。1916年(大正5年)4月1日に退役した[5]。
その後、東洋拓殖会社初代総裁を務めた[1][3]。また、1907年(明治40年)9月、男爵を叙爵し華族となる[1]。1917年(大正6年)6月2日、補欠選挙で貴族院男爵議員に選出され[6][7]、公正会に属して活動し死去するまで在任した[8][9]。
栄典
[編集]- 叙位
- 1889年(明治22年[7月15日 - 正七位[10]
- 1892年(明治25年)4月6日 - 従六位[11]
- 1895年(明治28年)3月28日 - 正六位[12]
- 1897年(明治30年)10月30日 - 従五位[13]
- 1901年(明治34年)7月10日 - 正五位[14]
- 1906年(明治39年)7月30日 - 従四位[15]
- 1911年(明治44年)
- 1921年(大正10年)12月20日 - 正三位[18]
- 勲章等
- 1885年(明治18年)11月19日 - 勲五等双光旭日章[19]
- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[20]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲四等瑞宝章[21]
- 1895年(明治28年)
- 10月18日 - 旭日小綬章・功四級金鵄勲章[22]
- 11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[23]
- 1899年(明治32年)5月9日 - 勲三等瑞宝章[24]
- 1901年(明治34年)12月27日 - 旭日中綬章[25]
- 1905年(明治38年)11月30日 - 勲二等瑞宝章[26]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 旭日重光章・功二級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[27]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵 [28]
- 1913年(大正2年)12月28日 - 金杯一組[29]
- 1927年(昭和2年)11月10日 - 勲一等瑞宝章[30]
- 外国勲章佩用允許
- 1904年(明治37年)12月2日 - 大清帝国:二等第二双竜宝星[31]
- 1905年(明治38年)8月29日 - 大韓帝国:勲一等八卦章[32]
- 1908年(明治41年)2月21日 - 大清帝国:頭等第三双竜宝星[33]
- 1909年(明治42年)12月10日 - ロシア帝国:神聖アンナ第一等勲章[34]
親族
[編集]- 娘婿 斎藤義夫(陸軍中将)[1]
脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l 『日本陸海軍総合事典』第2版、24頁。
- ^ a b c d e 『日本陸軍将官辞典』121-122頁。
- ^ a b c d e f 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』35頁。
- ^ 『官報』第8520号、明治44年11月13日。
- ^ 『官報』第1115号、大正5年4月22日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、24頁。
- ^ 『官報』第1451号、大正6年6月4日。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』64-65頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、36頁。
- ^ 『官報』第1820号「叙任及辞令」1889年7月24日。
- ^ 『官報』第2629号「叙任及辞令」1892年4月7日。
- ^ 『官報』第3521号「叙任及辞令」1895年3月29日。
- ^ 『官報』第4302号「叙任及辞令」1897年11月1日。
- ^ 『官報』第5406号「叙任及辞令」1901年7月11日。
- ^ 『官報』第6926号「叙任及辞令」1906年7月31日。
- ^ 『官報』第8469号「叙任及辞令」1911年9月12日。
- ^ 『官報』第8544号「叙任及辞令」1911年12月12日。
- ^ 『官報』第2817号「叙任及辞令」1921年12月21日。
- ^ 『官報』第722号「賞勲叙任」1885年11月26日。
- ^ 『官報』第1948号「叙任及辞令」1889年12月24日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第3693号「叙任及辞令」1895年10月19日。
- ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
- ^ 『官報』第4754号「叙任及辞令」1899年5月10日。
- ^ 『官報』第5548号「叙任及辞令」1901年12月28日。
- ^ 『官報』第6727号「叙任及辞令」1905年12月1日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 『官報』第430号「叙任及辞令」1914年1月7日。
- ^ 『官報』第264号「叙任及辞令」昭和2年11月14日。
- ^ 『官報』第6433号「叙任及辞令」1904年12月8日。
- ^ 『官報』第6655号「叙任及辞令」1905年9月4日
- ^ 『官報』第7397号「叙任及辞令」1908年2月26日。
- ^ 『官報』第7944号「叙任及辞令」1909年12月15日。
参考文献
[編集]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
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公職 | ||
先代 新設 |
東洋拓殖総裁 1908年 - 1913年 |
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