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守山大塚古墳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
守山大塚古墳
所在地 長崎県雲仙市吾妻町本村名字大塚[1]
位置 北緯32度50分42.76秒 東経130度12分6.02秒 / 北緯32.8452111度 東経130.2016722度 / 32.8452111; 130.2016722座標: 北緯32度50分42.76秒 東経130度12分6.02秒 / 北緯32.8452111度 東経130.2016722度 / 32.8452111; 130.2016722
形状 前方後円墳
規模 墳丘長66m(推定復元80m)
高さ7.2m(後円部)
出土品 土器片
築造時期 4世紀前半
史跡 なし
特記事項 長崎県本土部第1位の規模
地図
守山大塚 古墳の位置(長崎県内)
守山大塚 古墳
守山大塚
古墳
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守山大塚古墳(もりやまおおつかこふん)は、長崎県雲仙市吾妻町本村名にある古墳。形状は前方後円墳。史跡指定はされていない。

長崎県本土部では最大規模の古墳で[注 1]4世紀前半(古墳時代前期)頃の築造と推定される。

概要

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長崎県南東部、島原半島において有明海に面する扇状地に築造された古墳で、島原半島では唯一の前方後円墳である[2]。これまでに墳丘は大きく削平を受けており[2]、現在では墳丘上は墓地利用されている[3]。本格的な調査としては1990年平成2年)に墳丘測量調査が[2]2009年度(平成21年度)に周囲発掘調査が実施されている[3]

墳形は前方後円形で、前方部を東方向に向ける。墳丘長は66メートル[2](推定復元約80メートル[3])を測り、長崎県本土部では最大規模になる[3][注 1]。墳丘表面では葺石が認められているほか、墳丘周囲には周溝が巡らされている[3]。後円部ではかつて箱式石棺1基が出土したというが、詳らかでない[1][2]。また、南側にある丸塚古墳(円墳)は本古墳の陪塚とされる[1][4]。築造時期は古墳時代前期の4世紀前半頃と推定され[3]、長崎県域では最古級の古墳に位置づけられる[4]

遺跡歴

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  • 1952年昭和27年)頃、後円部で箱式石棺1基の出土(詳細不明)[1]
  • 1966年(昭和41年)8月、丸塚古墳の試掘調査(島原史学会)[1]
  • 1977年(昭和52年)、守山大塚古墳・丸塚古墳の墳丘測量調査(島原工業高等学校郷土部)[1]
  • 1990年平成2年)、墳丘測量調査[1][2]
  • 2009年度(平成21年度)、市道工事に伴う周囲発掘調査(雲仙市教育委員会、2010年に報告書刊行)[3]

墳丘

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墳丘の規模は次の通り(1990年(平成2年)の墳丘測量調査値)[1][2][4]

  • 墳丘長:66メートル - 近年の発掘調査による推定復元値は約80メートル[3]
  • 後円部
    • 直径:45メートル
    • 高さ:7.2メートル
  • 前方部
    • 幅:15メートル
    • 高さ:2.5メートル

脚注

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注釈

  1. ^ a b 長崎県全域(離島含む)で最大規模の古墳は壱岐島双六古墳(壱岐市勝本町立石東触、墳丘長91メートル)。

出典

  1. ^ a b c d e f g h 県内古墳詳細分布調査報告書 1992.
  2. ^ a b c d e f g 守山大塚古墳(続古墳) 2002.
  3. ^ a b c d e f g h 守山大塚古墳(雲仙市ホームページ)。
  4. ^ a b c 守山大塚古墳(長崎県教育庁学芸文化課「長崎県の遺跡大辞典」)。

参考文献

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(記事執筆に使用した文献)

  • 県内古墳詳細分布調査報告書 -県内古墳の墳丘・石室の資料化に伴う報告書-(長崎県文化財調査報告書 第106集)』長崎県教育委員会、1992年、57-61頁http://sitereports.nabunken.go.jp/14748  - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
  • 田川肇「守山大塚古墳」『続 日本古墳大辞典東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991 

関連文献

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(記事執筆に使用していない関連文献)

外部リンク

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