守山大塚古墳
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守山大塚古墳 | |
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所在地 | 長崎県雲仙市吾妻町本村名字大塚[1] |
位置 | 北緯32度50分42.76秒 東経130度12分6.02秒 / 北緯32.8452111度 東経130.2016722度座標: 北緯32度50分42.76秒 東経130度12分6.02秒 / 北緯32.8452111度 東経130.2016722度 |
形状 | 前方後円墳 |
規模 |
墳丘長66m(推定復元80m) 高さ7.2m(後円部) |
出土品 | 土器片 |
築造時期 | 4世紀前半 |
史跡 | なし |
特記事項 | 長崎県本土部第1位の規模 |
地図 |
守山大塚古墳(もりやまおおつかこふん)は、長崎県雲仙市吾妻町本村名にある古墳。形状は前方後円墳。史跡指定はされていない。
長崎県本土部では最大規模の古墳で[注 1]、4世紀前半(古墳時代前期)頃の築造と推定される。
概要
[編集]長崎県南東部、島原半島において有明海に面する扇状地に築造された古墳で、島原半島では唯一の前方後円墳である[2]。これまでに墳丘は大きく削平を受けており[2]、現在では墳丘上は墓地利用されている[3]。本格的な調査としては1990年(平成2年)に墳丘測量調査が[2]、2009年度(平成21年度)に周囲発掘調査が実施されている[3]。
墳形は前方後円形で、前方部を東方向に向ける。墳丘長は66メートル[2](推定復元約80メートル[3])を測り、長崎県本土部では最大規模になる[3][注 1]。墳丘表面では葺石が認められているほか、墳丘周囲には周溝が巡らされている[3]。後円部ではかつて箱式石棺1基が出土したというが、詳らかでない[1][2]。また、南側にある丸塚古墳(円墳)は本古墳の陪塚とされる[1][4]。築造時期は古墳時代前期の4世紀前半頃と推定され[3]、長崎県域では最古級の古墳に位置づけられる[4]。
遺跡歴
[編集]- 1952年(昭和27年)頃、後円部で箱式石棺1基の出土(詳細不明)[1]。
- 1966年(昭和41年)8月、丸塚古墳の試掘調査(島原史学会)[1]。
- 1977年(昭和52年)、守山大塚古墳・丸塚古墳の墳丘測量調査(島原工業高等学校郷土部)[1]。
- 1990年(平成2年)、墳丘測量調査[1][2]。
- 2009年度(平成21年度)、市道工事に伴う周囲発掘調査(雲仙市教育委員会、2010年に報告書刊行)[3]。
墳丘
[編集]墳丘の規模は次の通り(1990年(平成2年)の墳丘測量調査値)[1][2][4]。
- 墳丘長:66メートル - 近年の発掘調査による推定復元値は約80メートル[3]。
- 後円部
- 直径:45メートル
- 高さ:7.2メートル
- 前方部
- 幅:15メートル
- 高さ:2.5メートル
脚注
[編集]注釈
出典
参考文献
[編集](記事執筆に使用した文献)
- 『県内古墳詳細分布調査報告書 -県内古墳の墳丘・石室の資料化に伴う報告書-(長崎県文化財調査報告書 第106集)』長崎県教育委員会、1992年、57-61頁 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 田川肇「守山大塚古墳」『続 日本古墳大辞典』東京堂出版、2002年。ISBN 4490105991。
関連文献
[編集](記事執筆に使用していない関連文献)
- 『守山大塚古墳の発掘調査 -県内最古の前方後円墳-(雲仙市発掘調査速報 第2号)』雲仙市教育委員会、2010年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 『守山大塚古墳 -市道吾妻平木場線改良工事に伴う発掘調査報告-(雲仙市文化財調査報告書 第7集)』雲仙市教育委員会、2010年 。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。