守山義雄
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守山 義雄(もりやま よしお、1910年(明治43年)11月21日 - 1964年(昭和39年)8月27日)は、日本のジャーナリストである[1][2]。
経歴・人物
[編集]大阪市に生まれ[1][2]、大阪外国語学校(後の大阪外国語大学、現在は大阪大学に統合)ドイツ語学部に入学する[1][2]。1931年(昭和6年)に卒業後は大阪朝日新聞に入社し[1][2]、社会部に所属した[2]。1939年(昭和14年)には第二次世界大戦直前下にあったナチス・ドイツのベルリン特派員となり[1][2]、同年9月に大戦が勃発した際にはヨーロッパの戦線報道に携わる[1][2]。
翌1940年(昭和15年)6月にはナチス・ドイツ軍に入り[2]、終戦直前の1945年(昭和20年)7月まで従軍した[2]。その後は帰国および復員し[1][2]、1949年(昭和24年)より朝日新聞大阪本社の社会部長を経て1951年(昭和26年)にはサンフランシスコ平和条約の講和講義の報道にあたる[2]。後に上京し朝日新聞東京本社の学芸部および社会部長[2]、再度大阪本社に戻り編集次長を歴任した[1][2]。1962年(昭和37年)には後に同社が出版する『世界名作の旅』の取材によりその海外特派員となるが[2]、病気により挫折し帰国する[2]。晩年は病床でサマセット・モームが著した『雨のパンゴ』の翻訳にあたりそのまま死去した[2]。