安宅安五郎
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安宅 安五郎(あたか やすごろう、1883年〈明治16年〉4月23日 - 1960年〈昭和35年〉9月1日)は、日本の洋画家。 東京美術学校で藤島武二に師事。在学中に文部省美術展に入選し作品「靴屋」文部省買上。また大正8年に改組した第一回帝展で特選、続いて第二回帝展で特選となる。その後帝展、文展の審査員を度々務める。洋画だけでなく日本画も描く。
経歴
[編集]- 明治16年(1883年) 新潟市東堀通に四男として生まれる。
- 東京美術学校(現東京藝術大学)西洋画科入学。藤島武二に師事。在学中に文展に「靴屋」出品、文部省買上げ。
- 明治43年(1910年) 東京美術学校卒業
- 大正8年(1919年) 第一回帝展「白蓮樹」特選
- 大正9年(1920年) 第二回帝展「砂丘に立つ子供」特選
- 大正10年(1921年) 相馬其一と渡欧
- 大正11年(1922年) 第4回帝展特選
- 大正13年(1924年) 推薦
- 大正15年(1925年)帝展委員任命
- 昭和2年(1927年) 帝展審査員任命
- 明治神宮外苑の聖徳記念絵画館に「教育勅語下賜」
- 昭和4年(1929年)・6年(1931年)・7年(1932年) 帝展審査員任命
- 昭和6年(1931年) 「浜の娘」政府買上
- 昭和11年(1936年) 文展審査員任命
- 昭和12年(1937年) 大阪毎日新聞主催総合展に銀賞受賞
- 以後官展の審査員任命
- 昭和17年(1942年) 第5回文展に「秋草」出品文部省買上
- 昭和32年(1957年) 中国に文化使節として招待を受け訪問
- 昭和35年(1960年) 9月1日パーキンソン病により没[1]。77歳
親族
[編集]- 善平:父。
- フヂ:母。
- 福美:妻。日本画家尾竹越堂の次女。夕陽丘高女卒[2]。結婚前佐藤春夫に見初められたが親に反対され交際を断り、佐藤は「泉と少女」の詩を残す[3]。姉の尾竹紅吉(富本一枝)は富本憲吉の妻で、平塚らいてうとの同性愛を噂された。
- 善郎:長男。玉川学園卒業後洋画家となる[2]。
- 美穂:長女。自由学園高等部卒。森鴎外の三男森類と結婚。
- 良:次女。自由学院卒[2]。
- 洋二郎:次男。東京美校建築科[2]。
- 侃三郎:三男。暁星中学を経て[2]東京美校卒業後、21歳で武者小路実篤の次女・妙子と結婚、武者小路姓を名乗る(結婚後、妙子が戸籍筆頭者となり侃三郎は武者小路姓を名乗るが、実篤夫妻との養子縁組はしていない[4])。中央演劇学校を経て新東宝の美術部や北星映画の宣伝部に勤務。友人勅使河原宏と共に「青年プロ」「シネマ57」を設立し映画産業に関わったが、のち東京日本橋で喫茶店「薔薇瞳」の経営に転じる。この時期に巨額の借金を作り撤退を余儀なくされたが、やがて銀座に同名の喫茶店「薔薇瞳」と割烹店「もめんや」を出店。再び経営に失敗し、有楽町で画廊の経営を始める。1972年から絵画ブローカーに転身し、井の頭公園の脇で「生活社ギャラルリー」を経営。
- 慶四郎:四男。
- 安宅乕雄:甥。洋画家。