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富本一枝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
富本一枝(尾竹紅吉)

富本 一枝(とみもと かずえ、1893年4月20日 - 1966年9月22日)は、日本明治時代昭和時代画家随筆家婦人運動家富山県富山市出身[1]。旧姓は尾竹一枝。筆名、尾竹紅吉(おたけ こうきち)。

経歴

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夫の富本憲吉とともに(1923年11月6日)[2]
1934年4月16日、公開されて間もないアメリカ映画『生活の設計』について語る座談会が日比谷ダイビルのレインボーグリルで開かれた。前列左から、林芙美子三宅艶子原信子円地文子長谷川時雨。後列左から、長谷川春子、富本一枝、岡田禎子、松山房枝、松山みつえ[3]

日本画家尾竹越堂の長女として生まれる。夕陽丘高等女学校卒業、1910年女子美術学校日本画選科に入学するが中退。平塚らいてうに心酔し、『青鞜』創刊翌年の明治45年(1912年)に青鞜社に入社、紅吉を名乗り、随筆や詩の執筆、また1周年記念号の表紙を担当する等、積極的に活動する。しかし、らいてうとの同性愛関係や、バーでの飲酒(「五色の酒事件」)、吉原遊廓の見学(「吉原登楼事件」)などがスキャンダルを呼び、「新しい女」の一人として批判され、10月には青鞜社を退社する。

同年4月、第12回巽画会展に初出品した『陶器』が三等賞を受賞、1913年第13回巽画会展に出品した『枇杷の実』が一等褒状を受ける。

大正3年(1914年)、森鷗外の支援を受け、純芸術雑誌『番紅花』(さふらん)を主宰創刊する。同年富本憲吉と結婚。共同で陶芸を制作する他、富本一枝の名で文芸活動を行う。憲吉との間には1男2女を儲けるが、昭和21年(1945年)には別居した。

戦後は書店を経営し、『暮しの手帖』に多くの童話を載せるなど、晩年まで執筆活動を続けた。童話は没後に『お母さんが読んで聞かせるお話』として暮しの手帖社から出版された。

作品

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  • 「太陽と壺」 『青鞜』表紙 第2巻第4号
  • 「アダムとイブ」 『青鞜』表紙 第3巻第1号

刊行本

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  • 新しい女は瞬間である 尾竹紅吉/富本一枝著作集 富本一枝 尾竹紅吉 (著), 足立元 (編集) 皓星社 2023/8/18

脚注

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  1. ^ 20世紀日本人名事典(コトバンク)
  2. ^ 『特装版 日録20世紀 第3巻』講談社、2000年3月3日。
  3. ^ 『日本現代文學全集 96』講談社、1966年9月19日。

参考文献

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外部リンク

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