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原信子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原 信子
1910年代
基本情報
生誕 1893年9月10日
出身地 日本の旗 日本青森県八戸市
死没 (1979-02-15) 1979年2月15日(85歳没)
学歴 東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)声楽科中退
ジャンル オペラ
職業 歌手
活動期間 1913年 - 1952年?
レーベル オデオンレコード
事務所 帝国劇場歌劇部
ローヤル館
原信子歌劇団
スカラ座

原 信子(はら のぶこ、1893年〈明治26年〉9月10日 - 1979年〈昭和54年〉2月15日)は、日本声楽家大正時代から昭和時代にかけて活躍した国際的オペラソプラノ歌手五十嵐喜芳大谷冽子増田晃久久富吉晴松浦知恵子松島詩子伊藤京子宗孝夫等多くの歌手を育てた。

略歴

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青森県八戸市大工町出身、幼少期に一家で上京する[1]。1903年(明治36年)から三浦環に師事。東京音楽学校器楽科に入学。のちに声楽科に移るも中退し、その後ハンカ・ペツォールトアドルフォ・サルコリに師事して声楽を修める。20歳の時、上海のヴィクトリア劇場で「蝶々夫人」に出演、歌手としてデビュー[1]

外遊のため退団した三浦環の後任として、帝国劇場歌劇部に入る。帝劇では1913年(大正2年)公演の「魔笛」でデビューする[2]。その後歌劇部は洋劇部と改称し1916年(大正5年)に解散[3]、信子は赤坂ローヤル館に移る。1917年(大正6年)11月、ローヤル館を去る[注釈 1]

1917年、原信子歌劇団を結成[1]。浅草で大衆的なオペレッタを次々と上演、田谷力三高田雅夫藤原義江らとともに、いわゆる浅草オペラの一時代を築いた。1919年(大正8年)、突然の引退宣言。翌年、さらなる本格オペラを学ぶためアメリカに渡り、マンハッタンオペラに出演する幸運に恵まれる。その後カナダを経由してイタリアに留学、そこでサルヴァトーレ・コットーネに師事。また、プッチーニマスカーニの知遇を得た。

原信子 1919年頃
1921年
1934年4月16日、公開されて間もないアメリカ映画『生活の設計』について語る座談会が日比谷ダイビルのレインボーグリルで開かれた。前列左から、林芙美子三宅艶子、原信子、円地文子長谷川時雨。後列左から、長谷川春子富本一枝、岡田禎子、松山房枝、松山みつえ[4]

1928年(昭和3年)、日本人で初めてミラノスカラ座の専属となり[2]1933年(昭和8年)まで所属、プッチーニやトスカニーニの指導を受ける[5][1]

1934年(昭和9年)、日本に帰国後、歌劇研究所を主宰してオペラ運動に尽力。藤原歌劇団では「トスカ」「ミニヨン」に出演した[1]1938年(昭和13年)4月、第6回日本音楽コンクールの声楽部門の審査員の一人となる[6]

1950年(昭和25年)に毎日音楽賞1951年(昭和26年)に伊庭歌劇賞を受ける[1]

1951年のユーディ・メニューイン訪日公演時

1952年(昭和27年)、團伊玖磨作曲の「夕鶴」の初演で、主演のつう役を演じた[1]。その後も原信子歌劇研究所で晩年まで指導にあたった[注釈 2]

1979年、東京都内にて85歳で死去した。墓所は冨士霊園

録音

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留学前は、唱歌やアリアなど多くのレコードを吹き込んでいる。

スカラ座に所属していた1928年にはイタリアのフォノティピアに、

と、計4曲2枚のレコードを録音[7]。これは当時日本でもオデオンレコードでプレスされ、海外に出た後も衰えぬ人気が窺える。

現在でも、SPを復刻したCDが複数出ており、歌声を聴くことが出来る。他に「埴生の宿」、ウィリアム・ヘイス作曲の「故郷の廃家」、「ソルヴェーグの歌」(復刻版有り)等の録音を残している。

家族

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『八戸 これは巷のはなしでございあんす』によると、原信子の父親は原十目吉であるとされるが、同書は地元の老人の口述をまとめたものであり、実父か養父かなど詳細は不明[8]。原十目吉は八戸市大工町の侠客で、1893年に「帝国済民会」を設立し、バプティスト伝道師の中野徳次郎より受洗、各地で1000人にのぼる会員を集めながら上京、東京を含め500戸以上の貧民を調査したことで知られる[9][10][11]。講演活動業のほか、台湾の日本統治が始まると渡台して賀田組殖產部主任となり、清国人台湾上陸条例により清国人労働者の請負を独占した三井物産藤原銀次郎らとともに華民会館を設立するなど人足管理などに携わった[12][13]。三女のちゑ(1887-1909)は子爵清岡龍(清岡公張長男)の妻となったが早世した[14]

バレリーナの片山安子(片山潜と前妻の娘)は従妹とされる。潜の後妻は原たま(賜子)といい、八戸出身。[15]

夫に英国人ギャズビー[16]

脚注

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注釈

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  1. ^ 振付家ジョヴァンニー・ヴィットリオ・ローシーとの対立が原因らしい[要出典]
  2. ^ 1967年から1973年まで専属ピアニストに、のち指揮者になる古橋富士雄がいた。

出典

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  1. ^ a b c d e f g 原 信子」『日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)』https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%20%E4%BF%A1%E5%AD%90コトバンクより2023年10月10日閲覧 
  2. ^ a b 原信子」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E5%8E%9F%E4%BF%A1%E5%AD%90コトバンクより2023年10月10日閲覧 
  3. ^ ローシー」『日本大百科全書(ニッポニカ)』https://kotobank.jp/word/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%BCコトバンクより2023年10月10日閲覧 
  4. ^ 『日本現代文學全集 96』講談社、1966年9月19日。
  5. ^ 音源紹介 - 日本オペラ史の足跡~三浦環から≪夕鶴≫まで”. 歴史的音源. 国立国会図書館 (2014年6月16日). 2021年12月6日閲覧。
  6. ^ 日比谷公会堂でコンクール第一夜『大阪毎日新聞』(昭和13年4月10日)『昭和ニュース事典第6巻 昭和12年-昭和13年』本編p58 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
  7. ^ 原信子のFonotipia録音 - ニッポン・スヰングタイム
  8. ^ 『八戸 これは巷のはなしでございあんす』水谷悦二郎、八戸印刷荷札出版部、1973年、p121
  9. ^ 大工町『角川日本地名大辞典(旧地名編)』
  10. ^ 仙台拠点の地方伝道地・塩釜大島良雄、関東学院大学キリスト教と文化研究所報『キリスト教と文化』1号、2003年3月
  11. ^ 東京における“イースト・ロンドン高野岩三郎、大原社会問題研究所雑誌 No645/2012.7
  12. ^ 『帝国日本と華僑: 日本・台湾・朝鮮』安井三吉 青木書店 2005年、p102
  13. ^ 【臺灣歷史事件】華民會館與臺灣的華僑事務臺灣學通訊、吳文星(国立台湾師範大学歴史科名誉教授)、2015年8月26日
  14. ^ 『現代華族譜要』 維新史料編纂会編、日本史籍協会、1929、p237
  15. ^ 『欧米遊蹤』岩崎清七、アトリエ社、1933、p139-151
  16. ^ 『国際芸能人名鑑花形スタア1000人集1954-55年版』

外部リンク

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