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高野岩三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高野 岩三郎
高野岩三郎
生誕 1871年10月15日明治4年9月2日
長崎県西彼杵郡長崎区銀屋町
死没 (1949-04-05) 1949年4月5日(77歳没)
研究機関 大原社会問題研究所
東京帝国大学
研究分野 社会統計学
母校 東京帝国大学法科大学
影響を
与えた人物
森戸辰男
大内兵衛
舞出長五郎
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1923年当時の大原社会問題研究所員
(第2列左から3人目が高野岩三郎)

高野 岩三郎(たかの いわさぶろう、1871年10月15日明治4年9月2日)- 1949年昭和24年)4月5日)は、日本社会統計学者、社会運動家。

経歴・人物

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長崎県西彼杵郡長崎区銀屋町出身。兄は高野房太郎慶應義塾幼稚舎、共立学校(現:開成中学校・高等学校)、第一高等学校東京帝国大学法科大学卒業(1895年)[1]。大学は兄のアメリカからの仕送りで何とか卒業できたという。1904年法学博士の学位を授与される[2]。この間1897年から和仏法律学校で講師を務め、財政学を講じた[3]

ミュンヘン大学留学(1899-1903年)で統計学を学び、1903年に東京帝国大学法科大学助教授(統計学)。政治学者で後に東大総長となる小野塚喜平次らと社会政策学会を設立、学会内の最左派として活動した。また日本文化人連盟を結成。東京帝大では法学部からの経済学部独立に尽力した。弟子には森戸辰男大内兵衛舞出長五郎など、のちに著名となる多くのマルクス経済学者がいる。

1919年東京帝国大学経済学部成立の年に政府の要請により国際労働機関 (ILO) 代表に任命されたが、大日本労働総同盟友愛会などは労働界から選出すべきであると非難(国際労働会議代表反対運動)、同じ意見を持っていた高野は本来無関係のはずであったが筋を通して日本代表とともに東大も辞職した。

1920年、請われて大原社会問題研究所の設立に参加。設立時から没年まで所長を務める。大原社研では日本最初の労働者家計調査を実施、労働問題を研究。1928年12月日本大衆党が結成され委員長となるが、翌年同党は分裂。

戦後、鈴木安蔵森戸辰男馬場恒吾らと憲法研究会を設立、1945年12月26日、研究会は「憲法草案要綱」発表[4]。さらに同年12月28日、高野は雑誌「新生」にて高野私案を発表した[5]。 高野は最長老として最も過激な意見を述べたと言われる。この憲法草案要綱は、のちに連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) で憲法草案を作る際に参考とされ、日本国憲法との類似点が指摘される。高野はこれとは別に大統領制・土地国有化などを盛り込む日本共和国憲法私案要綱を発表。自身の所属する憲法研究会を含め、天皇制存続を容認する潮流を「囚われたる民衆」と称して批判、天皇制廃止を主張した。

1946年日本放送協会 (NHK) 第5代会長。敗戦後、GHQによる厳しい検閲に協力した5100名にも及ぶ日本人グループのリーダー格だったのが高野であり、このことが、高野の戦後初代NHK会長就任につながっている[6]。NHKの会長に就任した高野は1946年4月30日に行われた就任挨拶で「権力に屈せず、大衆とともに歩み、大衆に一歩先んずる」とする放送のあり方を説き、民主的なNHKを目指したが、GHQの占領政策が反共に転換したこと、任期半ばにして高野自身が死去したことで挫折してしまった。 同年10月、日本太平洋問題調査会を再建し、世話人に就任した[7]

1948年日本統計学会初代会長。日本社会党の顧問でもあった。

親族

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妻はミュンヘン留学中に知り合ったドイツ人女性バルバラ・カロリナ[8]。滞在中の1902年に娘のマリアが誕生し、1906年に日本で入籍[8]。長女マリアはマルクス経済学者の宇野弘蔵と、三女の正子は物理学者の野上茂吉郎[9]と結婚した。茂吉郎の両親は野上豊一郎弥生子夫妻[9]

栄典

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著書

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  • 財政原論有斐閣書房、1906年
  • 『統計学研究』大倉書店、1915年 ASIN B0093DZUWS
  • 『本邦人口の現在及将来』通俗大学会、1916年(通俗大学文庫)NCID BN05471735
  • 『社会統計学史研究 第1巻』同人社書店、1925年
  • 『経済学全集』第52巻 本邦社会統計論(編)改造社、1933年
  • 鈴木鴻一郎編『かっぱの屁――遺稿集』法政大学出版局、1961年 ASIN B000JAN2UQ

翻訳

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記念論集

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  • 『高野岩三郎先生喜寿記念論文集 第1』久留間鮫造ら編、第一出版、1948年

脚注

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  1. ^ 『東京帝国大学一覧 従明治28年至明治29年』帝国大学、1896年、p.404
  2. ^ 『官報』第6265号、明治37年5月21日、p.583
  3. ^ 法政大学大原社会問題研究所『大原社会問題研究所100年史』法政大学出版局、2020年、9頁
  4. ^ 八木秀次『日本国憲法とは何か』PHP研究所、2003年、ISBN 9784569628394 p167
  5. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、347頁。ISBN 4-00-022512-X 
  6. ^ 西村眞悟公式サイト・眞悟の時事通信 「コミンテルン(続1)」
  7. ^ 岩波書店編集部 編『近代日本総合年表 第四版』岩波書店、2001年11月26日、357頁。ISBN 4-00-022512-X 
  8. ^ a b 高野房太郎とその時代 (99)二村一夫著作集サイト
  9. ^ a b 『日本の有名一族』125頁、127頁。
  10. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。

参考文献

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外部リンク

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学職
先代
創設
大原社会問題研究所所長
初代:1920年 - 1937年
1941年 - 1949年
次代
久留間鮫造
第2代:1949年 - 1964年
先代
創設
日本統計学会会長
初代:1948年 - 1949年
次代
藤本幸太郎
第2代:1949年 - 1952年
その他の役職
先代
大橋八郎
第4代:1945年 - 1946年
日本放送協会会長
第5代:1946年 - 1949年
次代
古垣鐵郎
第6代:1949年 - 1956年