コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小野塚喜平次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小野塚 喜平次
人物情報
生誕 (1871-02-10) 1871年2月10日
日本の旗 日本 柏崎県古志郡長岡城下上田町(現:新潟県長岡市上田町)
死没 (1944-11-27) 1944年11月27日(73歳没)
出身校 東京帝国大学
学問
研究分野 政治学
研究機関 東京帝国大学
テンプレートを表示
小野塚喜平次

小野塚 喜平次(おのづか きへいじ、1871年2月10日明治3年12月21日[1]〉 - 1944年昭和19年〉11月27日[1][2])は、明治後期から昭和前期の政治学者。日本初の政治学者の一人とされる。東京帝国大学総長。

来歴・人物

[編集]

1871年、柏崎県古志郡長岡城下上田町[1][3](現:新潟県長岡市上田町)に生まれる。級友の身代わりに校長排斥事件の責任をとって長岡中学を中途退学後に上京し[1]共立学校から一高を経て[1]、1895年(明治28年)東京帝国大学法科大学政治学科を卒業し大学院に進んだ[1]。1897年(明治30年)文部省から在外研究を命ぜられ、ヨーロッパに留学[1]。1901年(明治34年)帰国後に日本初となる政治学講座の教授となる[1]。彼が教授に就任した時、吉野作造がその講義を聴いて影響を受けた。1902年(明治35年)法学博士を取得[1]

また1903年(明治36年)当時の桂太郎総理大臣小村壽太郎外相に対露強硬論の意見書を提出した東大七博士の一人としても知られる。

1917年(大正6年)帝国学士院会員[1]1918年(大正7年)法科大学長[1]1925年(大正14年)10月10日、貴族院議員(帝国学士院選出)に任じられ[4]無所属倶楽部に所属し1943年(昭和18年)10月20日まで在任[2][5]1928年(昭和3年)東京帝国大学総長となり、1934年(昭和9年)に退職[1]

弟子に吉野作造南原繁河合栄治郎蠟山政道[注釈 1]矢部貞治等多数。

著作

[編集]
  • 『政治学大綱』 上下巻、博文館、1903年12月。 NCID BN0559451X全国書誌番号:40019885 
  • 『欧洲現代立憲政況一班』博文館、1908年11月。全国書誌番号:40019554 
  • 『現代欧洲之憲政』博文館、1913年5月。 NCID BN0898051X全国書誌番号:43015012 
  • 『欧洲現代政治及学説論集』博文館、1916年7月。 NCID BN05194362全国書誌番号:43020152 
  • 『国際聯盟協会聯合会議』小野塚喜平次、1920年。全国書誌番号:43032844 
  • 『現代政治の諸研究』岩波書店、1926年11月。 NCID BN05608057全国書誌番号:43052654 全国書誌番号:51008793 
  • 『政治学』国文社出版部〈帝国大学講座 11〉、1928年8月。 NCID BA45926894全国書誌番号:47025190 

記念論集

[編集]

東大七博士

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 小野塚の同郷の後輩でもある。
  2. ^ 小野塚の同郷の先輩でもある。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『長岡歴史事典』53頁。
  2. ^ a b 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』181頁。
  3. ^ 『欧洲現代立憲政況一班』 新潟県立図書館 越後佐渡デジタルライブラリー
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、35頁。
  5. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、51頁。

参考文献

[編集]
  • 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
  • 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『長岡歴史事典』長岡市、2004年。

外部リンク

[編集]