寺沢寛一
生誕 |
1882年7月15日 日本 山形県米沢市上矢来町 |
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死没 | 1969年2月5日(86歳没) |
居住 | 日本 |
国籍 | 日本 |
研究分野 | 理論物理学 |
研究機関 |
東北帝国大学 東京帝国大学 千葉工業大学 電気通信大学 |
出身校 | 東京帝国大学 |
博士課程 指導教員 | ジョゼフ・ラーモア |
博士課程 指導学生 |
山内恭彦 小谷正雄 犬井鉄郎 加藤敏夫 永宮健夫 今井功 伏見康治 |
主な受賞歴 | 正三位・勲一等 |
プロジェクト:人物伝 |
寺沢 寛一(てらざわ かんいち、1882年7月15日 - 1969年2月5日)[1]は、日本の理論物理学者・数学者。日本学士院会員、東京帝国大学名誉教授、東京帝国大学総長事務取扱、理学部長、高等逓信講習所所長、千葉工業大学学長、電気通信大学学長などを歴任[2]。著書『自然科学者のための数学概論』は応用数学の名著として名高い。
年譜
[編集]1882(明治15)年7月15日、米沢藩士寺澤兵吉の次男として、現在の山形県米沢市上矢来町に生まれる[2]。
興譲尋常高等小学校から米沢中学興譲館入学。後に上京し、1902年、大成中学校卒業[2]。1903)年、旧制第一高等学校(2部)に入学[2]。1905年、東京帝国大学理科大学物理学科入学[2]。1908年、同大学卒業[2]、東京帝国大学大学院入学(理論物理学専攻)[2]。1913年まで、同大学院で理論物理学を学ぶ[2]。同年3月23日(30歳)、福岡藩士安永三吉の次女ミツ(美津子)と結婚。同年10月から、ドイツ、イギリス、フランスに留学する[2]。
1917年1月に帰国して東北帝国大学理科大学講師[2]、11月、理学博士(東京帝国大学理科大学)[2]、12月、東北帝国大学工学専門部教授[2]。1918年、東京帝国大学理科大学教授[2]。1943年、同大学を停年退官[2]。1947、千葉工業大学学長。1949年 - 1959年、電気通信大学初代学長[2]。
1965年、銀杯一組(正三位勲一等)を賜る。1969年2月5日、死去[2]。
上記のほか、日本学術会議会員、日本学士院会員、東京帝国大学地震研究所所長、東京帝国大学航空研究所所長など、数多くの役職を務めた[2]。
栄典
[編集]主要著書
[編集]- 『自然科学者のための数学概論』岩波書店、1928, 1954。ISBN 4-00-005480-5。
- 『初等力学』裳華房、1932年。ISBN 4-7853-2010-9。
- 『自然科学者のための数学概論 応用編』岩波書店、1960年。ISBN 4-00-005481-3。
- マックス・プランク『理論物理学汎論』裳華房、1926-1932。
- 佐野静雄『応用数学』寺沢寛一・小平吉男共編、岩波書店、1928年。
主要な弟子
[編集]- 山内恭彦(力学、応用数学)
- 小谷正雄(理論物性物理、生物物理)
- 犬井鉄郎(応用数学)
- 加藤敏夫(応用数学、偏微分方程式、数理物理学、関数解析学)
- 友近晋(流体力学)
- 永宮健夫(物性物理、固体物理)
- 今井功(流体力学)
- 伏見康治(統計力学)
その他多数
主要な交友関係
[編集]- 長岡半太郎(東京帝国大学、原子物理学)
- 田中館愛橘(東京帝国大学、物理学)
- 寺田寅彦(東京帝国大学、地球物理)
- 愛知敬一(東北帝国大学、物理学)
- 石原純(東北帝国大学、相対性理論)
- 南原繁(東京大学)
- 朝永振一郎(東京教育大学、量子力学)
- 松前重義(東海大学)
その他多数
脚注
[編集]- ^ 今井(1969)によれば、「沢」は新字体、「寬」は点を打つ旧字体が正式の表記。「寺沢」に因み、「土寸水尺」とも号した。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 今井功『故 寺沢寛一先生を悼む』一般社団法人 日本物理学会、1969年6月5日。doi:10.11316/butsuri1946.24.6.i 。2021年12月12日閲覧。
- ^ 『官報』第1657号「叙任及辞令」1918年2月13日。
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