安東郷氏
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正10年6月8日(1582年6月27日) |
別名 | 守重(七郎)[1]、通称:太郎左衛門 |
主君 | 土岐頼芸→斎藤道三→義龍→龍興→織田信長 |
氏族 | 美濃安藤氏 |
父母 | 父:伊賀定重 |
兄弟 | 安藤守就、金森長近室、郷氏、ほか |
妻 | 山内盛豊娘・通(山内一豊姉) |
子 |
山内可氏、深尾重良室、 山内一豊養女(乾和信室)、ほか |
安東 郷氏(あんどう さとうじ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。美濃国北方七間の城主。
生涯
[編集]美濃本巣郡北方領主・伊賀定重(伊賀守)の四男として誕生。安東守就は兄にあたる。
天文14年(1545年)、山内一豊の姉・通を娶る。兄・守就らと共に美濃国主・土岐氏、次いで斎藤氏に仕える。織田信長の美濃平定に伴い織田氏に仕えた。元亀元年(1570年)、姉川の戦いで兄らと共に戦い、元亀2年(1571年)には伊勢国長島一向一揆勢と戦い深手を負うも力戦してこれを防ぐなど活躍した。
ところが天正8年(1580年)、兄・守就らと共に信長の勘気を蒙り美濃武儀郡に幽居。はじめ親族の稲葉良通(一鉄)が扶助をしてこれを支えたが、信長の勘気が収まらず、次第に扶助しづらい状況となったため、美濃安藤氏の家臣も多く浪人となった。
天正10年(1582年)、本能寺の変が起きて信長が横死すると、兄らの挙兵に同調して稲葉良通の領有していた安東氏旧領北方城を奪い、再起を試みた。しかし、6月8日には稲葉氏の攻撃の前に敗北、兄らと共々討たれた。
なお、子・山内可氏は、山内一豊を頼り土佐藩家老[2]伊賀家の祖となった。
系譜
[編集]- 曾祖父:伊賀光就(太郎左衛門)
- 祖父:伊賀定就(伊賀守・出羽守・輝郷)
- 祖母:梶原氏