大蓮寺 (京都市)
大蓮寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 京都府京都市左京区正往寺町457 |
山号 | 引接山(いんじょうざん) |
院号 | 極楽院 |
宗派 | 浄土宗 |
本尊 | 阿弥陀如来 |
創建年 | 慶長5年(1600年) |
開山 | 専蓮社深誉上人 |
正式名 | 引接山極楽院大蓮寺 |
別称 | 安産の寺 |
札所等 | 洛陽三十三所観音霊場第8番 |
文化財 | 木造薬師如来立像(重要文化財) |
公式サイト | 安産祈願の寺・洛陽三十三所観音霊場 大蓮寺 |
法人番号 | 6130005002436 |
大蓮寺(だいれんじ)は、京都市左京区にある浄土宗の寺院。山号は引接山。本尊は阿弥陀如来。後光明天皇が夫人の安産祈願を命じたことから、安産祈願の寺として知られる。本堂には洛陽三十三所観音霊場第8番札所本尊の十一面観音も祀られている。
歴史
[編集]この寺は、慶長5年(1600年)深誉が現在の京都市下京区に創建したのに始まる。伝承によると、慶長5年のある日、深誉は伏見の地で金色に輝く阿弥陀如来を見出し、誰も供養する者がないことをもったいなく思い、持ち帰って五条に仏堂を建て安置した、これが大蓮寺であるという。しかし、後になってこの阿弥陀如来は真如堂(真正極楽寺)の阿弥陀如来であることがわかり、真如堂に訴えられて返還することになった。残念に思った深誉が二十一日間の念仏を修したところ、最後の夜に旅の僧があらわれ共に念仏するが、次の朝には旅の僧の姿はなく、その代わりに本尊の阿弥陀如来が分かれて二体になっていた。一体は真如堂に返還し、もう一体はこれまで通り、大蓮寺の本尊として祀った。
その後、後光明天皇の夫人である典侍庭田秀子が難産に苦しんでいたため、大蓮寺に安産祈願の勅命が下った。祈願の甲斐あって第一皇女の孝子内親王は無事出生。後光明天皇崩御の後は有栖川職仁親王がその信仰を受け継ぐ。その縁で寺紋は有栖川宮紋となっている。
明治初年の神仏分離に伴い廃寺となった祇園社(現・八坂神社)観慶寺から薬師如来像などの仏像がこの寺に移されている。寺は当初は仏具屋通五条下る毘沙門町(京都市下京区、西洞院五条の交差点付近)にあったが、1944年(昭和19年)に空襲対策として五条通を拡幅することとなり、移転を余儀なくされて東山二条に移った。戦後、昭和40年代に現在地にあった浄土宗・常念寺と合併して寺基を移した。
18世住職芳井教岸の直弟子籏玄教(はたげんきょう)は、明治から大正にかけて「走り坊主」の通称で知られた。その奇行や貧困層に対する施しは京都名物として有名で、1918年(大正7年)の新聞紙面で「今一休」とたたえられた。
仏像
[編集]本尊
[編集]- 阿弥陀如来立像
感神院(祇園社)
[編集]- 十一面観音立像
- 祇園社(現・八坂神社)観音堂の旧仏。カヤ材の一木造りで、10世紀の作。洛陽三十三所観音霊場第8番札所。
- 薬師如来立像(重要文化財)
- かつて祇園社の本地仏であったもので、祇園社の境内にあった観慶寺薬師堂に安置されていたが、明治の廃仏毀釈・神仏分離で観慶寺が廃絶した後、大蓮寺に移された。定朝様の温和な作風の像で平安時代後期の作風を示し、祇園社が延久2年(1070年)の火災で焼失した直後に造立されたものと推定される。作者は定朝の弟子で院派・慶派の祖である覚助と推定する説が有力である。像高192cm。
- 祇園社の旧仏。洛陽十二社中の一とされ、厄除の利益があるという。
境内
[編集]文化財
[編集]重要文化財
[編集]- 木造薬師如来立像 - 解説は既出。
前後の札所
[編集]- 洛陽三十三所観音霊場
- 7 長楽寺 - 8 大蓮寺 - 9 青龍寺
交通
[編集]- 京都市営バス東山二条・東山仁王門バス停より徒歩3分
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「新指定の文化財」『月刊文化財』358号、第一法規、1993
- 『院政期の仏像 定朝から運慶へ』(特別展図録)、京都国立博物館、1991
- 『洛陽三十三所観音霊場』公式ガイドブック、2005