コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

安田安之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

安田 安之(やすだ やすゆき、1947年?[1] - 1972年5月30日)は、日本の新左翼活動家、テロリスト革命家。1972年5月30日に奥平剛士岡本公三らとテルアビブ空港乱射事件を起こして死亡。

日本赤軍のメンバーの一人として紹介されることがあるが、厳密にいえば乱射事件発生時点では、日本赤軍は結成されていない[2]

経歴

[編集]

三重県員弁郡北勢町(現・いなべ市)で製材業を営む父親の元に生まれる[3]1966年三重県立四日市高等学校を卒業。同年京都大学工学部建築科へ入学。1970年に同校を休学。1971年9月30日、家族にギリシアへ建築の勉強に行くと言い残して出国。1972年1月、レバノンベイルートで京都大生が水泳中に死亡する事故があったが、この際に一緒に行動していたことが確認されている。1972年3月に岡本がベイルートに入った際に市内のアパートで初めて安田と会ったことを後に供述している[4][5]

テルアビブ空港乱射事件

[編集]

1972年5月、ドイツフランクフルトなど欧州に潜伏した後、同月30日にローマからフランス航空機でテルアビブ空港へ移動してテルアビブ空港乱射事件(死者26人、重軽傷者73人)を起こした。この際、安田が所持していた偽造パスポートは「トリオ・ケン」の名義であった[1]。死因は「空港警備隊との銃撃戦で射殺された」や「奥平と共に自爆した」等諸説あるが、事件の際に奥平と共に死亡した。25歳没[1]

安田の死体は、顔の判別がつかないほど損壊が激しかった。そばに破り捨てられた顔写真が散らばっており、復元して公開したところ家族が名乗り出て素性が判明した[6]。自宅に殺到した報道陣に対し、父親は「息子が憎い」と語り、寝込んだ母親は「死んでよかった」「かわいいとは思わない。憎しみだけの気持ちだ」との気持ちを伝えている[7]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c テルアビブ空港乱射事件・犯人速報(石川 荘太郎)”. 日本記者クラブ (2012年7月). 2020年9月15日閲覧。
  2. ^ テロリストの母は「他のやり方を考えれば…」と反省を口にしていた…娘が見た日本赤軍の女王「重信房子」の“素顔””. 産経新聞 (2014年7月31日). 2020年9月15日閲覧。
  3. ^ 中川友吉『過激派学生 : 何が彼らをそうさせたか』講談社、1973年、p.94。
  4. ^ 「過激に走った秀才兄弟」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月2日朝刊、13版、3面
  5. ^ 「第四の男日本潜入 赤軍ゲリラ」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月6日朝刊、13版、1面
  6. ^ 「三重県出身の京大生か 空港乱射 死亡ゲリラの一人」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月4日朝刊、13版、1面
  7. ^ 「ぼう然肩を落とす家族」『朝日新聞』昭和47年(1972年)6月4日朝刊、13版、3面