安田文左衛門
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
---|---|
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 矢須田久左衛門[1]、矢須田又左術門[2]、安田主米[3] |
主君 | 本多内記政勝[4]、徳川綱條 |
父母 | (実父)藤林九大夫之貞(又は云貞)[4]、(養父)安田玄佐[4][注 1] |
安田 文左衛門[5](やすだ ぶんざえもん)は、江戸時代前期 - 中期にかけての大和郡山藩士、その後、護持院隆光の推薦により[5]常陸国水戸藩(水戸徳川家)に雇われた。清水仁衛門と共に、松波良利の水戸藩改革に関係した。
生涯
[編集]「水府系纂」(彰考館所蔵)によれば、安田は元禄14年(1701年)7月25日に200石の書院番組(書院番士)として召抱えられた。その後、元禄16年(1703年)11月に割物奉行[6][注 2]、病のために宝永2年(1705年)11月に寄合組、宝永3年(1706年)8月に郡奉行、宝永4年(1707年)正月に再び寄合組になった。享保5年(1720年)7月6日に願により暇になっている[7]。その後筑波に隠退した。
元禄16年11月、安田文左衛門は書院番組から割物奉行(財政を司る)に任命され、「紙金」(藩札)発行のことを指図することとなった。そして、12月には江戸藩邸で発行方針が定まり、歳末27日、安田のほか興津良長(市郎兵衛)(300石、水戸藩奉行)・芦川政矩(市兵衛)(300石、水戸藩用人)らが新年早々水戸へ出向くよう命令を受けた。元禄17年(=宝永元年、1704年)2月、藩札発行の達(たっし)と共に、「紙金拵所」が水戸城内に開設され、役金奉行の垪和弥二衛門・逸見作衛門が紙金奉行に転じ、その下に札場金見1人、手代5人、そのほか役金方の下役人1人、合わせて7人が付属させられた。城下の町人から、駿河屋次(治)郎衛門と福島屋次(治)兵衛が札元としてこれに参加した。藩札用の紙は、久慈郡中染村(久慈郡水府村)の岡衛門に命じて漉かせた。紙の漉き方には特に念を入れて、縦横に一度ずつ漉いて紙質を丈夫にし、藩札の真贋を見分け易くして、贋札の出るのを防止しようとした。宝永元年4月27日から城下七軒町に「札場」(両替所)を開設し、正金を札金に引き換えるよう命令した[注 3]。藩札はわずか4年後の宝永4年10月に幕府が藩札禁止令を出したので停止となった[8]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 安田文左衛門宗貞の祖父は「藤林与兵衛快貞」といい、寛永15年まで片桐出雲守元包に仕え、寛文11年まで本多内記政勝に仕えたらしく、父九大夫之貞(又は云貞)は、「内記政勝公御家中分限帳」に200石取としてみえる。宗貞は、同じ200石の安田玄佐の養子になったので、6人扶持の項の安田文左衛門が彼であろう。
- ^ 水戸藩における割物奉行とは、「およそ金穀の出入多寡損益の吟味」をする役で、会計一般を扱う勘定奉行以上の重職であると、後に藤田幽谷は説いている。
- ^ 宝永元年秋には早くも贋札が出たので、訴人には金20両の褒美を出したほどであるから、相当に広く使用されたのであろう。藩では贋造を防ぐため、宝永2年4月藩札の模様を変えた。ところが、模様替えの札にまで贋札が出るほどであった。贋札は、さきに藩から漉人として指定された中染村の岡衛門と隼人が作ったことが露見して、両人は死罪、その家族は「上り者」(身柄を没収して人の奴婢とする)となった。
出典
[編集]参考文献
[編集]- 吉田, 俊純「水戸藩宝永の新法の推進勢力」(PDF)『東京家政学院筑波女子大学紀要』第3号、東京家政学院筑波女子大学、1999年、286-312頁、ISSN 13426451、NAID 110000074497。
- 林, 基『松波勘十郎捜索 上』平凡社、2007年、472頁。ISBN 978-4-58246-811-3。
- 林, 基『松波勘十郎捜索 下』平凡社、2007年、488頁。ISBN 978-4-58246-812-0。