安藤信和
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安藤 信和(あんどう のぶかず、1920年〈大正9年〉3月30日 - 2014年〈平成26年〉12月29日)は、昭和・平成期のアメリカンフットボール功労者。旧磐城平藩主安藤家16代当主。
人物
[編集]1920年(大正9年)3月30日、子爵安藤信昭(旧磐城平藩主安藤家15代当主)の次男(第3子)として、東京都に生まれる。母は、閑院宮載仁親王と同妃智恵子の第1女子・恭子女王(ゆきこじょおう)である。
東京府立第六中学校(現:東京都立新宿高等学校)を経て、1937年(昭和12年)に立教大学予科へ入学。入学後すぐアメリカンフットボール部に入り、ラインとして活躍した。1942年(昭和17年)に立教大学を卒業。
1952年(昭和27年)、関東大学連盟理事に就任。 1954年(昭和29年)より審判活動に従事し、1960年(昭和35年)には、関東地区審判組織の部長となった。1964年(昭和39年)、審判協会が設立されると初代理事長を務める。この間、多くのボウルゲーム主審を担うとともに、公式記録の制定に貢献した。
1979年(昭和54年)より12年間、日本アメリカンフットボール協会理事長を務め、退任後は同協会顧問を務めた。
2004年(平成16年)7月3日、日本アメリカンフットボールの殿堂顕彰者となる。
2014年(平成26年)12月29日、逝去[1]。94歳没。墓所は多磨霊園。
親族
[編集]参考文献
[編集]- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』(霞会館、1996年)
脚注
[編集]- ^ 『顧問安藤信和様ご逝去のお知らせ』(HTML)(プレスリリース)日本アメリカンフットボール協会、2014年12月30日 。2018年10月7日閲覧。