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安龍福

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
安 龍福
各種表記
ハングル 안용복
漢字 安 龍福
発音: アン・ヨンボク
日本語読み: あん りゅうふく
ローマ字 An Yong-bok
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安 龍福英語: An Yong-bok; あん りゅうふく、1657年? - 没年不詳)は、朝鮮慶尚道 東萊釜山に住んでいた漁夫。水軍経験があるとされる。賎民だったとも[要出典]。彼の発言は今も竹島問題に影響を及ぼしている。

概要

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1693年元禄6年)、不法に鬱陵島へ渡り漁労していた時、この島を開発していた日本人に遭遇し日本へ連行される。安龍福はその後朝鮮へ送還されるが、当時の彼の証言が発端となり鬱陵島(当時日本では鬱陵島を竹島と呼んでいた)の領有をめぐる日朝間の外交問題に発展した(竹島一件)。三年後に再び日本へ渡り、鬱陵島と于山島は朝鮮の領土だと訴える。しかし、帰国時朝鮮政府に捕らえられ、日本への不法渡航や直訴を起こしたとして流罪となる。当時日本人の呼ぶ松島(現在の竹島)を于山島だと主張した最初の人物であるが、実際に安龍福がどこの島を于山島と主張したかは不明である。

現在の韓国では竹島(独島)の領有を日本に認めさせた英雄とされており、当時民間外交を行った漁夫として中高教科書にも取り上げられている。安龍福が漁労に出ていた鬱陵島には「安龍福将軍忠魂碑」(1968年建立)が、また居住していたとされる釜山水営区には2001年に「安龍福祠堂」と共に「安龍福将軍像」と「安龍福将軍忠魂塔(1967年に水営公園頂上に建立したものを移設)」が整備されている[1]が、安龍福は将軍ではない。

安龍福の素顔

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1828年に完成した鳥取藩士江石梁(岡嶋正義)編述の『竹島考 下』には、安龍福の身分を示す腰牌(認識票)の内容を書き取ったものがある。腰牌は軍兵が所持するものであり、表面には「東莱 私奴(賤民) 用朴 年三十三 長四尺一寸 面鉄髭暫生疵無 主京居呉忠秋」、裏面には「庚午 釜山佐自川一里 第十四統三戸」と記されている。『星湖塞説』にも、安龍福の腰牌のことが書かれており、その表面に「東莱(トンネ)/私奴、用卜、年三十三」とある。安龍福は軍兵であり、顔は赤ら顔、やや髭が生え、体には傷がないことがうかがえる。「庚午」の年に33歳であることから、「庚午」は元禄3年(1690年)になるので、1657年生まれであることが分かる。 身長は、旧尺貫法の鯨尺であると思われる一尺は約37.9cmで四尺一寸で(身長は、約155.4cm)となる。 居住地は彼の証言からも釜山の佐自川一里だったことが分かる。(当時の釜山は東莱県にある小さな漁村で日本の出先機関である対馬藩倭館があった)

安龍福が日本に連れて来られた時の日本での様子が記録されており、『竹島考』では「アンピンシヤハ猛性強暴ナル者」とあり、『因府年表』では「異客ノ内ヘ暴悪ノ者之有」と記されている。強暴で暴悪な性格であったようで、異国との争いを恐れず交渉するなど度胸のある人物だと言える [2]

安龍福は日本語が話せる。当時の釜山には日本の出先機関である対馬藩の倭館があって、その周囲には朝鮮との貿易に係わる日本人町が形成されていた。安龍福はこの釜山の日本人商人から日本語を教わったか、日本の商人と取引する朝鮮人に日本語を教わったのではないかとされている。彼の言動は日本や朝鮮で証言記録などに残っているが、彼自身の書いた航海の記録や日本での滞在記録などはなく、証言内容も曖昧なことから朝鮮語も日本語も文字はほとんど書けなかった様である。
また後の朝鮮での証言記録と実際とは食い違う点が多数あり、日本では朝鮮政府の使者であるかのごとく振る舞い、朝鮮では自ら武勇伝を繰り広げた人物であるが、朝鮮の東莱府使は「風来の愚民が、たとへ作為する所があっても、朝家(朝鮮政府)の知る所ではない。」(至於漂風愚民設有所作爲亦非朝家所知)(粛宗実録 31巻 23年 2月 14日)と答えており、安龍福が朝鮮の役人や使者ではなかったこと、単独行動に虚偽の箔をつけて大言壮語していたことが明らかである。

安龍福の行動

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竹島(鬱陵島)での村川家との遭遇

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幕府より竹島(鬱陵島)を拝領していた米子の村川家と大谷家は、毎年交代で開発に出向いていたが、『竹島考』や大谷九右衛門の『竹嶋渡海由来記抜書控』によると、1692年元禄5年)3月、村川家の船が竹島(鬱陵島)に行った時、島に多くの鮑が干されているのを見つけた。また置いていた漁具や漁船がなくなるなど、何者かが漁をしている痕跡もあった。そうこうするうち、鮑漁をしていた朝鮮人に遭遇する。この朝鮮人の中に日本語が分かる者がおり、尋ねてみると、「竹島(鬱陵島)より北の島へ国主用の鮑取りに来たが難風に遭ってこの島に漂着した。この島にも鮑がいるので取った。」と説明している。日本語を話すことからこの人物が翌年に竹島(鬱陵島)から日本へ連行された安龍福であることはほぼ間違いない。安龍福は竹島(鬱陵島)の北の島から来たと言っているが竹島(鬱陵島)の北に島はなく、彼の言う島は当時朝鮮で発行されていた朝鮮八道古今総図の北に記されている実在しない于山島を指していると見られる。彼の発言は竹島(鬱陵島)での鮑漁を隠す為の詭弁であった可能性が高い。
村川家の船頭は、この島は日本の領土なので二度と来ないよう申しつけ、権益が荒らされた証拠として、朝鮮人が作った干し鮑や味噌麹などを持って帰った。

大谷家文書の原文(抄)

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作恐口上之覚

(略)
内壱人は通しニテ 弐人共ニともども船に乗り 此方之舟へ参申候故乗せ申候 而何国之者と相尋申候へ ちやうせんかわてん国村之者と申候故 此嶋之儀公方様より拝領仕 毎年渡海いたし候 嶋にて候所に 何とて参候やと尋候へは 此嶋より北に当り嶋有之三年に一度宛国主之用にて 鮑取に参候 国元は二月廿一日に類舟十一艘出舟いたし 難風に逢五艘に以上五拾三人乗し此嶋へ三月廿三日に漂着、 此嶋之様子見申候へは 鮑有之候間 致逗留 鮑取上けしと申候 (略)
村川市兵衛 舟頭平兵衛
  同 黒兵衛

「元禄六年酉四月朝鮮人召つれ参候時諸事控」

現代文

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内一人は(日本語が)通じる者で、二人とも船に乗り、こちらの船へ来たので乗せた。

いったいどこの国の者かと尋ねると、「朝鮮かわてん国村の者」と言うので、 この島は国より拝領し、毎年渡海している島なのに、なぜ来たのだと尋ねると、 「この島より北に当たる島があって三年に一度国主宛ての用で、鮑を取りに来ている。 国元を二月二十一日に同じ様な船十一艘で出船し、難風に遭い五艘に五十三人以上乗せこの島へ三月二十三日に漂着、この島の様子を見ると、鮑がいるので、逗留し、鮑を取った」と言った。

竹島(鬱陵島)での大谷家による連行

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鳥取藩大谷家の文書によると、1693年元禄6年)4月、鳥取藩大谷家21人の乗った船が幕府の許可を得て竹島(鬱陵島)に行き、漁労をしている10人ほどの朝鮮人に出会う。その中に日本語が話せる安龍福がおり、尋問される。安龍福が言うには、自分は42歳で朝鮮より3艘42人で来ていると言っている。これを危惧した大谷家の人たちは安龍福と朴於屯(박어둔)の2人を日本に連れていく。

なお当時の朝鮮は鬱陵島の空島政策を実施しており、この島はワカメなどの宝庫だったと見られる。

大谷家文書の原文(抄)

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「元禄六年竹島より伯州に朝鮮人連帰候趣大谷九衛門船頭口上覚」

(略)
唐人拾人斗猟仕居候 内通じ壱人居申候故 此方のはし舟に乗せ前に北浦に而乗せ候 唐人は舟より上げ外に壱人以上弐人乗様子相尋申候得は通じ申候は 三月三日ニ此嶋へ猟可仕と存参着仕候由申候

舟は何艘乗参候哉と相尋候は三艘に人数四拾弐人乗参候由申候

竹嶋之儀荒磯故 此方え舟無心許奉存弐人之唐人乗せ 此方の元船へ戻り申候

右之唐人つれ戻り申候
子細ハ去年も此嶋に唐人居申に付重而此嶋へ渡り猟いたし候義堅無用之段おどししかり段々申候聞せ候処 亦当唐人猟仕居申候ニ付加様ニ御座候へは已後嶋之猟可仕様も無御座別而迷惑ニ奉存 乍恐何とそ御断可申上ためと奉存右之唐人弐人召連 卯月十八日ニ竹嶋を出船仕隠岐国福浦へ同廿日に参着仕候
(略)
当卯月廿七日
舟頭 黒兵衛
同 平兵衛

現代文

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(略)

朝鮮人が十人ほど漁をしていた。その中に(日本語が)通じる者が一人いたので、こちらの渡し舟に乗せ前の北浦まで乗せた。朝鮮人を船より上げ他に一人から二人乗せ様子を尋ねたところ(日本語が)通じる者が言うには「三月三日にこの島へ漁ができると思って来たのだ」と言った。

船は何艘で乗ってきたのか尋ねると「三艘に四十二人乗って来た」と言った。

竹島は荒磯である故、こちらの舟を心許(こころもと)なく思い、二人の朝鮮人を乗せて、こちらの元船へ戻った。

右の朝鮮人を連れ戻った。
子細は、去年もこの島に朝鮮人が居たため、重ねてこの島へ渡り漁をしてはならないことを脅し叱り段々と申し聞かせていたのに、また当朝鮮人が漁をしていたので、このような様子であれば今後島の漁を行なうこともできず格別迷惑と判断し、恐れながら何とぞ国主に御判断して頂くため、右の朝鮮人二人を召し連れ、四月十八日に竹島を出船し、隠岐国福浦へ同二十日に到着した。
(略)

朝鮮送還

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『竹島考』や鳥取藩の『池田家御櫓日記』などによると、大谷家により連行された安龍福ら二人は米子で二ヶ月に渡り取り調べられ、米子の家老 荒尾修理より報告を受けた鳥取藩はこの事を江戸に連絡し指示を仰いだ。指示があるまで安龍福ら二人の朝鮮人を米子の大谷九右衛門勝房方に留め、足軽二名を付き添わせて警護に当たった。その間は、安龍福の外出は許可されなかったが、酒は一日三升以下をも支給されている。その後、幕府からの通達があり、二人に今後は竹島(鬱陵島)に渡らないよう厳命し異国人の窓口である長崎に護送するよう指示があった。彼らを米子から一時鳥取城下に移したが、安龍福は強暴であるということから町内での見物を禁止している。陸路山陰道を通り長崎に送られることになるが、鳥取藩は長崎まで医師や調理人等を含め約90人を随行させ道中の食事は「一汁七菜」を出してもてなすなど、異国からの客人のように扱っている。一方幕府は、対馬藩に、二人を長崎で引き取って朝鮮へ送還するとともに朝鮮政府に越境について抗議するよう命じており、対馬藩は、竹島(鬱陵島)は日本領との幕府の見解に基づき、二人を罪人として扱った。対馬藩は長崎で安龍福を取調べるが、その証言をまとめた「朝鮮人口上書」には、安龍福は漁労のため鬱陵島へ9人で渡ったとし、大谷家の尋問と違う証言をしている。その後、対馬藩は幕府の指示に基づき対馬経由で二人を朝鮮政府に引き渡しており、この時朝鮮政府に対し竹島(鬱陵島)は日本の領土なので朝鮮人は来ないよう申し渡したため、鬱陵島を自国領としている朝鮮との間で領土問題となる。(竹島一件

安龍福らは朝鮮へ引き渡された後、朝鮮でも取調べを受けるが、朝鮮側の史料『辺例集要』巻一七によると、安龍福らは魚を商うため船に物を乗せ移動していたところ、漂風によって鬱陵島に到着した。船から下りて隠れていたが、朴於屯と安龍福の二人は下船が遅れたため、そこに船でやって来た日本人八人に刀剣と鳥銃で威嚇され連れ去られたとしている。

大谷家の人に対しては威勢を張るためか、3艘42人で来て自分たち以外にもまだ大勢いるように言っているが、長崎では9人と証言し、朝鮮では自分たちは6人だとしている。また、密航を隠すためか、漁労をしていたにもかかわらず、島に漂着し隠れようとしているところを日本人に銃で脅され連れ去られたなどとしている。年齢も所持していた腰牌からするとこの時36歳のはずだが、虚勢張ってか42歳だと言っている。

日本の伯耆国へ訴願

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安龍福が朝鮮へ送還された3年後の1696年元禄9年)1月、朝鮮との長期間に及ぶ交渉の結果、幕府は鳥取藩へ竹島(鬱陵島)への渡航禁止を伝達した。そのことを知らない安龍福は、この年の5月に僧侶を含む10人を引き連れ鬱陵島と于山島の領有の訴願に伯耆を目指し、途中隠岐に着岸する。隠岐では船内や持ち物など詳細に取り調べを受けるが、このとき安龍福は松島を于山島とし江原道東莱府に属すと説明している。しかし実際は鬱陵島と于山島は江原道蔚珍県の管轄で、東莱府は慶尚道にあり、全くでたらめの説明をしている[3]。3年前に大谷家に連行され素性が知れているにもかかわらず、隠岐での取調べ後、税を取り立てる役人を装い、船首に「朝鬱両島監税将臣安同知騎」と書いた旗を掲げて、訴願のため自ら伯耆へ向かう。僧の雷憲以外も全員が役人や僧侶を装っている[4][5]。隠岐で取調べを受けたときは安龍福と名乗り日本語を話しているが、鳥取城下に入ってからは名前に「同知」という官名を詐称し日本語を話せないふりをしている。鳥取藩で訴状を提出するが、話が通じないため幕府が対馬藩より通訳を派遣する。しかし、通訳が到着する前に江戸幕府より異国人の窓口は長崎であると返答され、全員乗ってきた船で帰国させられる。

隠岐の村上家文書に隠岐で取調べを受けた時の安龍福に関する内容が残っているが、年齢についての信憑性はない。

村上家文書の原文(安龍福について)

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この当時の朝鮮官僚の服装
一、安龍福   午歳四十三

  冠ノヤウナル黒キ笠水精ノ緒
  アサキ木綿ノウハキヲ着申候
  腰ニ札ヲ壱ツ着ケ申候
  表ニ通政太夫
     安龍福  年甲午生
  裏ニ住東莱 印彫入
  印判小サキ箱ニ入
  耳カキヤウジ小サキ箱ニ入
    此弐色扇ニ着ケ持申候

現代文

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一、安龍福   午歳四十三歳

  冠のような黒い笠に水晶の緒
  色の薄い木綿の上着を着ている。
  腰に札を一つ付けている。
  表に通政太夫
     安龍福  午年生まれ
  裏に「東莱に住む」とある 印が彫ってある
  印判は小さい箱に入っている
  耳掻きと楊枝が小さな箱に入っている
    これを二色の扇に着けて持っている。

備辺司での取り調べ

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日本へ密航した安龍福は帰国後捕らえられ漢城(現在のソウル)の備辺司へ移送される。備辺司は朝鮮の軍事を担当する官庁で、ここでの尋問後、日本人と訴訟事件を起こした罪により流罪となる。この時の安龍福の供述内容は朝鮮の『粛宗実録粛宗22年(1696年)9月戊寅条に記録されている。

その供述内容を要約すると、安龍福は僧侶の雷憲らと鬱陵島に行くとそこで多くの日本人に会った。ここは朝鮮領なのになぜ来ているのだと言って恫喝すると逃げたので、追いかけて子山島に行き、そこにいた日本人を更に追いかけた。途中狂風に遭い隠岐島に漂着した。島主へ「前に来た時(1693年4月に鬱陵島で大谷家により日本へ連れて行かれた時のこと)伯耆国で将軍から鬱陵島と于山島までを朝鮮領と定めた書契をもらったが守られていない」とせまったが返答がないので伯耆国へ行った。そこで「前に来た時に将軍からもらった書契を対馬藩に奪い取られ、その後対馬藩は何度も使者を送って横暴を極めているので(幕府の命による対馬藩の鬱陵島領有交渉のことと考えられる)将軍へ上訴文を提出したい」と言うと、対馬藩主の父親がやって来て将軍に伝わると息子が死罪になるのでやめてくれというので、その代わりに越境してきた15人の日本人が処罰された。そして、そこから船で帰った。

この供述内容は不法渡航の罪を逃れるためか、不自然な点や明かな作り話が多数あり信憑性はないが、この中の安龍福の行動の大筋は、松島(現在の竹島)へ渡ったとすることを除くと日本側の資料と一致している。

「粛宗実録」の原文

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粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅

備辺司 推問安龍福等 龍福以為 渠本居東莱 為省母至蔚山 適逢僧雷憲等 備説頃年往来欝陵島事 且言本島海物之豊富 雷憲等心利之 遂同乗船 與寧海蒿工劉日夫等 倶発到本島 主山三峰高於三角 自南至北 為二日程 自東至西亦然 山多雑木鷹鳥猫 倭船亦来泊 船人皆恐 渠倡言欝島本我境 倭人何敢越境侵犯 汝等可共縛之 仍進船頭大喝 倭言吾等本住松島 偶因漁採出来 今当還往本所 松島即子山島 此亦我國地 汝敢住此耶 遂拾良翌暁沱舟入子山島 倭等方列釜煮魚膏 渠以杖撞破 大言叱之 倭等収聚載船 挙帆回去 渠仍乗船追趁 埣偶狂飆漂到玉隠岐 島主問入来之故 渠言頃年吾入来此処 以鬱陵子山島等 定以朝鮮地界 至有関白書契 而本国不有定式 今又侵犯我境 是何道理云 爾則謂当転報伯耆州 而久不聞消息 渠不勝憤椀 乗船直向伯耆州 仮称欝陵子山兩島監税将 使人通告 本島送人馬迎之 渠服青帖裏 着黒布笠 穿及鞋 乗轎 諸人並乗馬 進往本州 渠興島主 対坐廳上 諸人並下坐中階 島主問何以入来 答曰 前日以兩島事 受出書契 不啻明白 而対馬島主 奪取書契 中間偽造 数遣差倭 非法横侵 吾将上疏関白 歴陳罪状 島主許之 遂使李仁成 構疏呈納 島主之父 来懇伯耆州曰 若登此疏 吾子必重得罪死 請勿捧入 故不得禀定於関白 而前日犯境倭十五人 摘発行罰 仍謂渠曰 兩島既属爾国之後 或有更為犯越者 島主如或横侵 並作国書 定譯官入送 則当為重処 仍給糧 定差倭護送 渠以帯去有幣 辞之云雷憲等諸人供辞略同 備辺司啓請 姑待後日 登対禀処 允之。

翻訳

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『粛宗実録』巻三〇 二十二年九月戊寅

備辺司が安龍福等に推問した。彼は東莱(現在の釜山)に住んでおり帰省し母に会うため蔚山に赴くと、ちょうど僧の雷憲等に逢った。近年鬱陵島に往来した事を説明し、またこの島は海産物が豊富だと言うと、雷憲等は心を動かされ遂に船に同乗した。寧海の蒿仕事の劉日夫等を奮い立たせ、ともに出発しその島に到着した。主な山は三つの峰が三角にそびえている。南北にも、東西にも2日程かかる。山は雑木・鷹・鳥・猫が多く、の船もまた来泊していたので船人は皆恐れた。彼は先に「鬱陵島は本来我領域だ。倭人は何故敢えて越境侵犯するのだ。おまえら皆縛り上げるぞ。」と言って、進み寄り船頭を大喝すると、倭人は「我らは本来松島に住んでいる。偶然漁に出て来ただけで、今ちょうどそこへ帰るところだ。」と言うので、「松島はすなわち子山島で、これもまた我国の地だ。おまえらは何故敢えてそこに住むのだ。」と言った。そして翌暁、船を曳いて子山島に入ると、倭人達は釜を並べ魚の膏を煮ていた。杖で撞いてひっくり返し、大いに叱り付けると、倭人達は片付け船に乗せ、帆を揚げ帰り去った。彼はなお船に乗り追いかけたが、狂風に遭遇し隠岐に漂着した。島主が入来の訳を聞いたので、彼は「近年私がここへ来たとき、鬱陵子山島等を以て朝鮮の地界と定めた関白(ここでは将軍の意味。以下同様。)の書契があるが、この国は徹底していない。今又我境界を侵犯するとはどういう訳なのだ。」と言った。そこで、伯耆州にこれを伝えるように言ったが、久しく消息がない。彼は我慢しきれなくなって、船に乗り直接伯耆州に向かった。「鬱陵子山両島監税将」と仮称し、人を使い通告すると、本島(本土)は人馬を送って迎えた。彼は青帖裏(官服)を着て、黒い布の笠をかぶり、靴を履き、籠に乗り、他の者は並んで馬に乗り、この州を進んで行った。彼は島主(鳥取藩主)を奮い立たせ対座し聴かせ、多くの人が並んでその下に下座した。島主(鳥取藩主)は入来の訳を聞いたので、「先日両島の事で書契をもらったのは明白であるが、対馬島主が書契を奪い取り、間で偽造し数人を遣わし倭は非法に(鬱陵子山島等を)横取りしている。私は関白に上訴し罪状を陳情する。」と答えた。島主(鳥取藩主)はこれを許したので、遂に李仁成を使い訴状を提出しようとすると、島主(対馬藩主)の父が伯耆州に来て、「もしこの訴状が提出されると、我が子は必ずや死罪になる。」と言い、この話はなかったことにしてくれと頼むので、関白に上訴することができなかった。しかし、先日国境を犯した倭の十五人は摘発され処罰された。そして、「両島があなたの国に属した後、更に国境を越える犯人がいたり、島主(対馬藩主)が横取りするようなことがあれば、国書を作り官吏を送り重大事とする。」と言ったと言う。そして、食料を与え代わりに倭が護送すると言ったが、彼は退去するので好意を断ると、雷憲ら他の者も同じように断ったと言う。備辺司は、後日その対処が決定するまでしばらく待つことを承知するよう申し付けた。

安龍福の虚言

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以下は備辺司での証言で不自然な点や明かな作り話。

  • 幕府が竹島(現在の鬱陵島)への渡航を禁じる旨を朝鮮の使者に伝えたのは1697年元禄10年・粛宗23年)の正月だが、幕府が竹島への渡海禁止令を出したのは1696年1月。安龍福が隠岐へ漂着したのは1696年5月。鳥取藩に竹島渡海禁止令が正式に伝わったのは1696年8月1日である。内藤正中は、安龍福は日本人を追いかけて隠岐に漂着したと証言したが、鳥取藩の漁師たちは1696年5月にはまだ竹島渡海禁止令を知らず、彼らが5月に竹島に渡った可能性があると主張している[6]
  • 日本人が松島に住んでいると言ったとある。彼は日本人を追いかけて島に上陸したとしているが、松島は明かに人が住める環境ではない。安龍福は日本人の言う松島のことを全く知らないまま松島を于山島だと思い込んでいる。
  • 安龍福は海産物が豊富な鬱陵島に僧侶らを連れて渡ったとし、そこで偶然出合った日本人を鬱陵島から追い払い、松島に渡った日本人をさらに追い払って追いかけているうち狂風に遭い隠岐に漂着したとしている。しかし、安龍福は「朝鬱両島監税将臣安同知騎」と書いた旗や青帖裏(官服)、水晶の緒が付いた黒い布の笠、靴などを事前に用意し、役人を装って当初朝鮮本土を出発した全員で日本に向かっている。つまり、偶然出合った日本人を追いかけているうちに狂風で日本に漂着したのではなく、最初から何らかの訴願の目的で日本へやって来ている。2005年に発見された『元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書』には、安龍福が欝陵島で日本の漁民と遭遇したことや漂着したとの記述はなく、隠岐島での取調べに対し、安龍福は「鳥取伯耆守様へお断りの義これ在り罷り越し申し候」と訴願が目的であることが記されている[3]
  • 松島は于山島で朝鮮領だとあるが、安龍福が日本に来たとき于山島を鬱陵島から北東に50里(約20km)[7]離れた大きな島だと言っている。しかし実際の松島は鬱陵島から東南東に約92kmの地点にある断崖絶壁の小島であり、安龍福は松島の位置や大きさを全く把握していない。また当時の朝鮮の地図にある于山島も鬱陵島の北に描かれており、安龍福の証言以外松島に朝鮮人が来たという記録は全くない。
  • 安龍福は、日本の将軍から鬱陵島と于山島の朝鮮領有の書契をもらっているのに、対馬藩が勝手に朝鮮政府に対し何度も領有権を主張する使者を送って来ているように言っているが、そうではない。対馬藩は幕府の指示に従い鬱陵島の領有交渉を行っていた。(竹島一件1693年に安龍福が連行されたのをきっかけに鬱陵島の領有権争いが幕府と朝鮮の間で発生したのであり、対馬藩と朝鮮の間で発生したのではない。つまり、そのきっかけとなった漁夫(安龍福)に将軍が鬱陵島や于山島の朝鮮領有を認める書契を出したはずがない。また、連行された異国の一漁夫に一国の将軍が島を手放す書契を渡すはずもない。
  • 鬱陵島や于山島の朝鮮領有を認める書契が仮にあったとしても、幕府に逆らい将軍が出した書契を対馬藩が奪い取り勝手な領有交渉をするはずがない、その様なことをしても対馬藩が罰せられるだけである。
  • 安龍福は鳥取藩主と対座して直訴したと言っているが、当時鳥取藩主は参勤交代で江戸滞在中である。
  • 対馬藩主の父親がやってきて息子の死罪が免れないと言ったと言っているが、安龍福が連行された時の対馬藩主はその時既に若くして他界しており、その父親も参勤交代で江戸に滞在しており、江戸から出ることはできない。
  • 安龍福の2回目の来日時に朝鮮の役人に扮装しているが、鳥取藩では日本語を話していない。鳥取藩は朝鮮人達と話が通じないため、江戸幕府が対馬藩より通訳を派遣している。しかし、その通訳が到着するまでに、幕府からの指示で全員乗ってきた船で退去させられているため、鳥取藩と交渉したとする内容は全て作り話であることがわかる。

朝鮮王朝から対馬藩への安龍福に関しての返答

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粛宗実録粛宗23年丁丑2月乙未条(1697年2月14日)には、東萊府使の李世載対馬藩の使者との交渉で安龍福について次のように述べている。対馬の使者が 「去年の秋に貴国の人が上程したことがあったが、朝廷の命令で出したのか。」と問うと、李世載は「もし述べなければならないことがあれば、通訳官を江戸へ送る。何を思い憚って、狂った愚かな漁民を送ることがあろうか。」また、朝鮮の軍事行政機関である備辺司は「風に漂う愚民にいったっては作為することがあっても朝廷の知るところではない」としている。

このように、対馬藩が安龍福の行動を朝鮮の東莱府使に確認したところ、安龍福は朝鮮政府と関係ない愚民であると回答している。

『粛宗実録』の原文[8]

 粛宗 巻三十一  二十三年丁丑三月
○東萊府使李世載狀啓言 館倭言 前島主以竹島事 再送大差 及其死後 時島主入去江戶 言于關白以竹島近朝鮮 不可相爭 仍禁倭人之往來 周旋之力多矣 以此啓聞 成送書契如何 又問 去秋貴國人有呈單事 出於朝令耶 臣曰 若有可辨 送一譯於江戶 顧何所憚 而乃送狂蠢浦民耶 倭曰 島中亦料如此 不送差倭 此亦別作書契答之 云 書契當否 令廟堂稟處 備邊司回啓曰 竹島卽鬱陵島一名 是我國地 載於輿地勝覽 日本亦所明知 而前後送差 請已書契措語 未知其間情弊 今乃以禁勿往來 歸功於時島主 顯有引咎之意 朝家大體 不必更責前事 至於漂風愚民 設有所作爲 亦非朝家所知 俱非成送書契之事 請以此言及館倭允之

翻訳

 粛宗 巻三十一  二十三年(1697年丁丑三月
東萊府使李世載が申し上げた。倭館が言うには「前島主(対馬藩主)が、竹島(鬱陵島)の件で、再度差し送ったが、その(藩主の)死後、新しい島主が入り江戸へ行った。将軍は、竹島(鬱陵島)は朝鮮に近いので、相争わず日本人の往来を禁じることに力を尽くした。」 これを聞き、書契を送ってはどうかというと、「去年の秋に貴国の者が上訴したことがあったが、朝廷の命令で出したのか。」と又問うた。(東莱府使)は「もし述べなければならないことがあれば、通訳官を江戸へ送る。何を思い憚って、狂った愚かな漁民を送ることがあろうか。」と言った。は「島の中でまたこのようなことがあっても、日本に送らず、また別に書契を作り返答する。」と言った。書契が必要かどうか朝廷の命令を依頼したところ、備辺司が回答するには、「竹島は即ち鬱陵島と同じ名称で、これは我国の地だ。『(東国)輿地勝覧』に載っており、日本もまた明らかに知っている。前後に差し送り書契を取り計らうことをやめるよう頼んだが、その間の問題の情況は知らない。今の往来を禁じることは、時の島主(対馬藩主)の功績で、責任を取る考えがあることは明らかだ。朝廷は大筋において前のことを更に責める必要はないとした。風に漂う愚民にいったっては作為することがあっても朝廷の知るところではなく、書契を送ることはない」これらを倭館に依頼することを認めた。

またこの年の3月、朝鮮国禮曹参議李善博から対馬藩主宛ての書簡の中では次のように書かれている。

「昨年漂着した者のことですが、海浜の人は舟を操ることを稼業とし、強風に遭えばたちまち波風に洗われやすく、重ねて越境を冒し貴国に入ります。・・・もしその訴状が本当であれば妄作の罪がある。そのためすでに法に基づいて流刑に処しました。(昨年漂氓事 濱海之人率以舟楫為業 颿風焱忽易及飄盪 以至冒越重溟轉入貴国・・・若其呈書誠有妄作之罪 故已施幽殛之典以為懲戢之地)」

この書簡では、安龍福を流刑に処した事を日本側に通知している。[2][9]

安龍福の于山島

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当時の朝鮮政府は鬱陵島に空島政策を取っていたので、安龍福は鬱陵島周辺の地理的知識がほとんどなかったはずだが、鬱陵島に何度も訪れているようであり、日本には二度訪れている記録がある。しかし彼の証言を総合すると、当時の朝鮮の地図にある架空の大きな島 于山島が見当たらず、日本人の呼ぶ松島が于山島だと信じていたようである。彼は于山島が鬱陵島より北東に約20km、船で約1日で行ける居住可能な大きな島としており日本人の言う松島ではない。安龍福が日本へ朝鮮の領有を直訴しに来た大きな理由は、豊富なワカメが大量に採集できる漁場とそのための居住ができる大きな島を独占したかったからではないかとされる。彼が現在の竹島のような島のために危険を冒してまで日本へ直訴しに来たと考えるのは不自然であり、于山島が松島であるという証言は不法渡航の罪を免れるための虚言である可能性が高い。

安龍福の発言の影響

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安龍福による松島を于山島だとする証言は、その後松島が于山島であり朝鮮領であるとの認識を朝鮮政府に定着させていると見られ、結果的に今日の竹島問題に影響を与えている面もある。

現在の韓国では彼の証言をそのままあてはめ、松島(現在の竹島・韓国名独島)が于山島であり、安龍福が日本の将軍より于山島を朝鮮領だとする書付をもらっていると主張している。そして于山島は于山国(鬱陵島のこと)の一部であり、于山国は朝鮮に服従したので独島(現在の竹島)は韓国領であるとしている。

松島が于山島であるかについては、1877年の太政官指令の曖昧さを考慮するとしても(竹島外一島を参照)、彼がそれまでの文献ないし地図を読み違えて于山島を子山島とした上、松島を子山島だとしている問題もある。彼の発言にはこの他にも食い違う点が多数あり、安龍福の「日本の将軍より鬱陵島と于山島は朝鮮領だとする書付をもらっている」という証言も虚言であると考えられる。松島が于山島だとは日本では考えられていない。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 独島研究所
  2. ^ 竹島考 下(pdf) 20ページ(安龍福の腰牌の記載内容)
  3. ^ a b 下條正男「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」について [1]
  4. ^ 元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚
  5. ^ 元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚(読下し文)
  6. ^ 内藤正中他、『史的検証 竹島・独島』、p.244
  7. ^ 1朝鮮里=0.4km
  8. ^ 独島研究所
  9. ^ 竹嶋紀事五巻p200-201(pdfでp1-2)

外部リンク

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