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宍戸元家 (弥三郎)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
宍戸元家
時代 戦国時代
生誕 明応7年[1]1498年
死没 永正15年6月21日[1]1518年7月28日
別名 通称:弥三郎→左衛門尉[1]
戒名 嶺陽院殿桃巌常源[1]
官位 従五位下[1]
主君 大内義興
氏族 藤原北家道兼流八田氏族宍戸氏
父母 父:宍戸元源[1]、母:山内豊通の娘[1]
正室:珍山慶珠山内直通の娘)[1]
隆家[1]
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宍戸 元家(ししど もといえ)は、戦国時代武将安芸国高田郡甲立[注釈 1]五龍城を本拠とする国人領主・宍戸元源の嫡男[1]。祖父の宍戸元家と同名を名乗った。なお、当時の文書において苗字の「宍戸」は、「完戸」または「鹿戸」(読みはいずれも「ししど」)と表記されている[2]

生涯

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明応7年(1498年)、安芸国高田郡甲立[注釈 1]五龍城を本拠とする国人領主・宍戸元源の嫡男として生まれる[1]元服後は祖父・宍戸元家と同じく元家を名乗り、元家にとっては従姉妹にあたる母方の伯父・山内直通の娘と婚姻した[1]

永正15年(1518年6月21日家督を相続する前に五龍城において死去[1]。享年21[1]

元家の死後、元家の妻は実家である山内家に戻り、同年中に嫡男の宍戸隆家が誕生したとされる[注釈 2][5]。なお、後に馬来乗綱に再嫁して、二男二女をもうけている[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ a b 現在の広島県安芸高田市甲田町上甲立・下甲立
  2. ^ 宍戸隆家の生年については後世の系譜類の記載以外の確実な根拠は無く、実際にはもう少し後である可能性が指摘されている。文禄4年(1595年)12月に宍戸元秀飯田宮内に対して、隆家の娘で毛利輝元正室の南の大方が「壬午御歳」の「御祈念」のために井原村内の10石の地を厳島神社内侍衆に寄進する旨を伝えているが、もし「壬午御歳」が隆家の生年を指すのであれば、隆家の生年は大永2年(1522年)となる[3]。その場合は隆家の父である元家の生没年も変動することとなる。なお、元家の没年も同様に系譜類に記載されているもので、史料的には若くして死去した元家の事跡は確認できない[3][4]

出典

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参考文献

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  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。 
  • 安芸高田市歴史民俗博物館『宍戸隆家生誕500年記念 安芸宍戸氏~毛利一族、四本目の矢~』、2018年11月。
    • 秋山伸隆「戦国期の宍戸氏と毛利氏」『宍戸隆家生誕500年記念 安芸宍戸氏~毛利一族、四本目の矢~』収録、2018年11月。