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宮崎重次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

宮崎 重次(みやざき しげつぐ、天正8年(1580年) - 正保元年2月14日1644年3月22日))は、安土桃山時代から江戸時代にかけての旗本徳川家康徳川秀忠に仕えた。通称は庄次郎、半兵衛。父は宮崎泰重、母は佐々木正重の娘。

生涯

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『寛政重修諸家譜』によれば、宮崎氏は日向国宮崎郡藤原氏で、戦国時代甲斐武田氏に仕え、信濃国伊那郡座光寺村(現・長野県飯田市)を領した。祖父の宮崎泰景は武田氏滅亡後、徳川家康に仕え、関東移封に従い、武蔵国多摩郡車返村(現・東京都府中市)周辺に280石を拝領した。

慶長4年(1599年)11月、徳川家康に拝謁する。父の遺跡を継ぎ、後に徳川秀忠に仕え大番に列する。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いの一環としておこなわれた、上田城攻めに参陣する。

慶長6年(1601年)、40石加増の上、信濃国伊那郡駒場(現・下伊那郡阿智村)に本領を移され、材木奉行を務める。

元和元年(1615年)の大坂夏の陣に出陣し、枚方方面にて敵に備える。

寛永4年(1627年三河国遠江国内にて代官を務める。

正保元年(1644年)2月14日に死去。法名は宗円。自ら建立した信濃国向関村(現・阿智村)宗円寺に葬られる。

出典

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