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富永忠安

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
富永忠安
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 不明
別名 忠康、万五郎
官位 備前右京大夫(受領名)
主君 吉良持広
氏族 富永氏
父母 父:富永正安
松平長親
忠元
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富永 忠安(とみなが ただやす)は、戦国時代武将東条吉良氏の家臣。三河国設楽郡室城主。東条城主・吉良持広の家老。

出自

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富永氏伴氏の後裔で設楽郡富永荘の領主。東条吉良氏の譜代の家臣であり、代々室城主を務める。

略歴

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松平信定に追われた松平広忠に味方し、天文5年(1536年)9月10日、広忠を室城に迎え入れる。しかし、信定の軍勢に攻撃されたため、閏10月7日、室城を自焼し広忠は今橋(豊橋市)へ移っている[1]

『西尾私史』によれば、永禄の頃、忠安は領地である設楽郡野田の館に住んでいたが、吉良氏没落後の永禄7年(1564年)3月に鵜ヶ池(現・西尾市鵜ヶ池町)に移り住み、永禄9年(1566年)8月10日に没したという。一方、『岡崎領主古記』(岩瀬文庫蔵)によれば、天文8年(1539年)、吉良持広は織田氏と結び今川義元と断交した。これに対し、持広の弟・荒川義広は、義元に味方し、今川軍を居城である荒川城(現・西尾市八ツ面町)に入れたため、城近くの荒川山(八ツ面山)付近で度々合戦となった。そして8月2日の合戦で、持広と忠安は揃って戦死したという。富永氏の墓がある大通院(西尾市吉良町寺嶋)の過去帳にも、富永一族が同日荒川山で戦死したことが記されている。

脚注

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  1. ^ 『阿部家夢物語』[要文献特定詳細情報]による。

参考文献

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  • 『西尾市史2 古代中世近世上』
  • 平野明夫『三河松平一族』(新人物往来社、2002年) ISBN 4404029616