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富田勇太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

富田 勇太郎(とみた ゆうたろう、1883年8月12日 - 1946年2月24日[1])は、日本の官僚銀行家大蔵省理財局長、満州興業銀行初代総裁。

経歴

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福岡藩士・富田一郎の四男として、福岡県に生まれる[1]。1901年福岡県中学修猷館[2]、1904年第一高等学校英法科[3]を経て、1908年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業(銀時計)し[4]大蔵省に入省。同年高等文官試験行政科に合格する[1]

1909年4月から1913年2月にかけて、大蔵省専売局書記としてヨーロッパに出張[1]。この頃、在英国大使館には、同じ修猷館出身の参事官山座円次郎、二等書記官広田弘毅駐在武官原口初太郎がおり、夜ごと山座の部屋に集っては、博多弁丸出しの談論風発で親交を深めている[5]

1916年12月理財局国債課長となり[1]1917年には中野正剛が主催した勉強会「東方会」(1933年に中野が結成した同名の思想団体とは別)に参加し、財界の木村雄次金子直吉、陸軍の林銑十郎荒木貞夫、外務省の小村欣一木村鋭一、学界の塩沢昌貞杉森孝次郎吉野作造内藤湖南らと集って、アジアの未来を語り合った。その後、1918年10月理財局国庫課長を経て、1924年1月大蔵省理財局長に就任。10年に渡って同局長を務め、1927年の昭和金融恐慌、1930年の金輸出解禁と1931年の再禁止などの経済的混乱の収拾に当たった。1925年4月からは預金部長も兼務している[1]。また、1927年には田中義一首相が主催した「東方会議」において、大蔵省の代表として出席している。

1934年2月からは、海外駐箚財務官としてイギリス・フランスアメリカに駐在し、1936年11月大蔵省を辞職。同年設立された満洲興業銀行の初代総裁に就任し1941年1月まで在任する。その後、1945年5月から8月まで大蔵省財政顧問を務める[1]

妻・幸子は三宅正太郎の妹[1]

栄典

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参考文献

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  • 秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。ISBN 978-4-13030-120-6 355頁

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h 秦郁彦 2002.
  2. ^ 『修猷館同窓会名簿 修猷館235年記念』(修猷館同窓会、2020年)同窓会員4頁
  3. ^ 『第一高等学校一覧(自昭和16年至昭和17年)(附録)』(第一高等学校編、1941年)101頁
  4. ^ 『東京帝国大学一覧(從大正7年至大正8年)』(東京帝国大学、1919年)學士及卒業生姓名121頁
  5. ^ 長谷川峻『山座圓次郎-大陸外交の先駆-』(時事通信社、1967年)107頁
  6. ^ 『官報』第2640号「叙任及辞令」1921年5月21日。