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原口初太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
原口初太郎
はらぐち はつたろう
生年月日 1876年1月29日
出生地 日本の旗 日本 福岡県糟屋郡青柳村(現福岡県古賀市)
没年月日 (1949-04-30) 1949年4月30日(73歳没)
出身校 陸軍士官学校卒業
前職 陸軍中将
所属政党 (立憲政友会→)
無所属

在任期間 1945年12月19日 - 1946年7月3日

選挙区 福岡県第1選挙区
当選回数 3回
在任期間 1932年2月20日 - 1936年1月21日
1936年8月3日 - 1942年4月29日
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原口 初太郎(はらぐち はつたろう、明治9年(1876年1月29日 - 昭和24年(1949年4月30日[1])は、日本の陸軍軍人政治家。最終階級は陸軍中将衆議院議員貴族院議員玄洋社社員[2]

経歴

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福岡県糟屋郡青柳村に、旧福岡藩士・常岡藤三の二男として生れ、原口幸一の養子となる[1]福岡県立尋常中学修猷館を経て、1896年11月、陸軍士官学校(8期)を卒業[1]、優等生として恩賜品を授与されている。同期には林銑十郎がいる。

1897年陸軍砲兵少尉となるが、陸軍砲工学校高等科を卒業後、1902年8月、陸軍大学校(19期)に入学。在学中に日露戦争に従軍したため、卒業したのは1907年11月となる[1]。成績は優等であり、恩賜の軍刀が授与されている。同期には、荒木貞夫阿部信行真崎甚三郎がいる。

1911年11月、イギリス大使館附武官補佐官に任命される[1]。この頃、在英国大使館には同じ修猷館出身の参事官山座円次郎、二等書記官広田弘毅大蔵省専売局書記富田勇太郎がおり、夜ごと山座の部屋に集っては、博多弁丸出しの談論風発で親交を深めている[3]

帰国後、1914年日独戦争において、青島守備軍参謀として青島攻囲軍に参加(青島の戦い)し、帰還後、1917年8月、陸軍砲兵大佐となり野砲兵第17連隊長を務める[1]1918年11月、参謀本部欧米課長に就任し、シベリア出兵において福田雅太郎参謀長に従って2度シベリアに赴き、参謀本部シベリア主任として画策する。

1921年7月、陸軍少将に昇格してアメリカ大使館附武官として渡米し[1]ワシントン会議に随員として出席。この時に見たアメリカの巨大な工業力に衝撃を受け、以後、対米非戦論者となっている。

1925年5月、野戦重砲兵第4旅団長を経て、1926年3月、陸軍中将に昇格し陸軍野戦砲兵学校長に就任。その後、1927年7月、陸軍砲工学校長、1928年5月、第5師団長を歴任する。1930年8月、予備役となる[1]

1932年2月、第18回衆議院議員総選挙において当選し、以後当選3回[1]。衆議院議員在任中は、大政翼賛会に反対する急先鋒となり、反対代議士の座長となって奮闘した。このため、時の陸軍大臣東條英機の逆鱗に触れ、東條は「原口を剥官せねばならぬ」と息巻いたほどであった。1942年4月、第21回衆議院議員総選挙では大政翼賛会の推薦なしで立候補し、落選した。

戦後、1945年12月19日、貴族院勅選議員に任命され[4]1946年7月3日まで在任した[5]。その後、公職追放を受けた[6]。追放中の1949年に死去した。墓所は和田堀廟所

栄典

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位階
勲章

参考文献

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  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』東京大学出版会、1991年。ISBN 978-4-130-36060-9 118頁

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i 秦郁彦 1991.
  2. ^ 石瀧豊美『玄洋社・封印された実像』海鳥社、2010年、玄洋社社員名簿53頁。
  3. ^ 長谷川峻『山座圓次郎-大陸外交の先駆-』(時事通信社、1967年)より。
  4. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年、54頁。
  5. ^ 『官報』第5847号、昭和21年7月12日。
  6. ^ 公職追放の該当事項は「正規陸軍将校」。(総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、91頁。NDLJP:1276156 
  7. ^ 『官報』第4289号「叙任及辞令」1897年10月16日。
  8. ^ 『官報』第4948号「叙任及辞令」1899年12月27日。
  9. ^ 『官報』第1526号「叙任及辞令」1917年9月1日
  10. ^ 『官報』第2726号「敍任及辞令」1921年9月1日。
  11. ^ 『官報』第4092号「敍任及辞令」1926年4月17日。
  12. ^ 『官報』第535号「叙任及辞令」1928年10月5日。
  13. ^ 『官報』第3682号「敍任及辞令」1924年11月29日。