寒巌義尹
寒巌義尹(かんがん ぎいん、建保5年(1217年)- 正安2年8月21日(1300年10月4日))は、鎌倉時代中期の曹洞宗の禅僧。寒巌派(法皇派)の派祖。父は後鳥羽天皇(『扶桑禅林僧宝伝』)とも順徳天皇(『本朝高僧伝』)とも言われ、法皇長老と呼ばれた。
略歴
[編集]寛喜3年(1231年)に出家。初め比叡山で天台教学を学んだが、仁治2年(1241年)には深草興聖寺の道元の許に参禅し、道元の越前移転にも随行した。建長5年(1253年)、中国の南宋に渡り、道元没後の翌建長6年(1254年)には日本へ帰国。道元の弟子で永平寺2世孤雲懐奘に師事したが、正元2年(1260年)頃、肥後国宇土郡古保里庄の住人、古保里越前守の娘素妙尼の要請により如来寺(現在の宇土市花園町)を建立した。文永元年(1264年)、道元の語録を携えて再び宋に渡り、無外義遠や退耕徳寧、虚堂智愚らを歴参。文永4年(1268年)、帰国すると博多の聖福寺に3年程留まったが、やがて肥後に拠点を移し、建治2年(1276年)には同国益城郡に極楽寺を開創した。
勧進聖的性格も強く、同年5月、当時九州第一の難所とされていた緑川の大渡に架橋計画を立てた(「大渡橋幹縁疏」)。この計画は、当時の肥後国河尻庄地頭河尻泰明や、泰明を介した北条氏の援助を得て、2年にわたる工事の末、弘安元年(1278年)7月に竣工し、盛大な供養が執り行われた(「大渡橋供養記」)。以後、義尹は泰明との交流を深め、弘安6年(1283年)には寄進された同庄大渡(現在の熊本市南区野田)に大慈寺を開創。同寺は正応元年(1288年)に後宇多上皇の祈願所となり、曹洞宗の九州本山として栄えた。
正安2年(1300年)、義尹は如来寺へ隠遁し、84歳で入寂した。如来寺境内に義尹の墓所と伝える石塔があり、宇土市指定文化財になっている。
関係論文
[編集]参考文献
[編集]- 川口高風「寒巖義尹の研究」(『仏教学会誌』10、1968)
- 上田純一「寒巌義尹、肥後進出の背景 ─北条氏得宗勢力と木原・河尻氏─」(『熊本史学』57・58、1982)
- 粟谷良道「義尹」(『道元思想のあゆみ』1、鎌倉時代、1993)
- 舘隆志「寒巌義尹の研究 ─生誕について─」(『駒澤大學禪研究所年報』17、2006)
- 舘隆志「新出資料・寒巌尹和尚本伝について」(『宗教学論集』25、駒沢宗教学研究会、2006)
- 新宇土市史編纂委員会『新宇土市史 通史編第二巻 中世・近世』(2007)
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