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寺田光輝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
寺田 光輝
横浜DeNAベイスターズでの現役時代
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 三重県伊勢市
生年月日 (1992-01-05) 1992年1月5日(32歳)
身長
体重
173 cm
75 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り BCL / 2015年 ドラフト3位[1]
NPB / 2017年 ドラフト6位
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

寺田 光輝(てらだ こうき、1992年1月5日 - )は、三重県伊勢市出身の元プロ野球選手投手)。右投右打。

経歴

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プロ入り前

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内科胃腸内科医師として、伊勢市内で病院を開業している実父の長男として出生[2]伊勢市立厚生小学校(厚生イーグルス)3年時に軟式野球を始め、伊勢市立厚生中学校進学後は軟式野球部へ所属した。

三重県立伊勢高等学校への進学後は硬式野球部へ入部。甲子園球場での全国大会と無縁であったが、3年時の春季三重県大会では、チームを準決勝にまで導いた。

高校卒業後は三重大学教育学部に進学したが、「レベルの高さに圧倒された」とのことで[3]、入学から2か月後に休学。祖父や叔父なども医師であったこと[2]を背景に、一時は医学部への転部を検討していた[4]。しかし、「野球を続けたい」との一心で、三重大学の中退・2年間の浪人生活を経て筑波大学体育専門学群に入学した[5][6]。筑波大学での同期生にはラグビー選手の福岡堅樹がいたが、在学中にはお互いに面識がなかったという[2]。筑波大学では硬式野球部へ所属し、4年時に救援投手として首都大学野球のリーグ戦に登板。しかし、特筆するほどの活躍には至らず、卒業後には地元の百五銀行へ就職することが内定していたが、奈良隆章(当時の硬式野球部助監督)から「ここで(野球生活を)終わるのはもったいないじゃないか。野球を続ける道を探したらどうか?」と勧められたことをきっかけに、独立リーグからNPBを目指すことを決意[7]。結局、内定を辞退し、ベースボール・チャレンジ・リーグ(BCリーグ)石川ミリオンスターズに入団した。背番号は14[7]

BCリーグ・石川時代

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入団1年目の2016年からクローザーに起用され、前期リーグ戦(全36試合)だけで20試合に登板し、1勝11セーブ、自責点0という好成績を残した[7]。後期を含めたシーズン全体でも、40試合の登板で3勝1敗19セーブ、防御率1.11と好調だったが、秋のNPBドラフト会議ではどの球団からも指名されなかった。

2年目の2017年には、リーグ戦35試合に登板。通算成績は0勝3敗10セーブ、防御率2.41と前年を下回っていたものの、NPBドラフト会議横浜DeNAベイスターズから6巡目で指名を受け、契約金2500万円、年俸600万円で入団に合意した(金額は推定)[8]。背番号は54

横浜DeNA時代

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2018年には、6月26日に横浜スタジアムにおけるシーズン唯一の二軍主催公式戦(イースタン・リーグの対東北楽天ゴールデンイーグルス戦)9回表に登板した[9]が、腰痛を発症[2]。後の診断で椎間板ヘルニアが判明し、シーズン中の8月15日に患部の手術を受けた[10]。シーズンを通じて二軍生活に終始し、イースタン・リーグ公式戦では13試合の登板で0勝1敗、防御率6.00を記録したが、手術後も腰の痛みに悩まされた[2]

2019年には、投球フォームをサイドスローからアンダースローへ変更。イースタン・リーグでは、公式戦唯一の初勝利を挙げたものの、18試合の登板で防御率が9.86にとどまった。結局、一軍公式戦への登板機会がないまま、10月1日に球団から戦力外通告を受けた[11]。「(医師一家の)長男でありながら家族から『医師になれ』と言われないまま野球を続けられたので、そろそろけじめを付けたい[2]」との思いから、11月12日に12球団合同トライアウト大阪シティ信金スタジアム)へ参加した[12]後に、現役からの引退を決めた。12月2日付で、NPBから自由契約選手として公示[13]

現役引退後

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現役時代に故障が相次いだことに加えて、「地元の野球少年に何らかの貢献がしたい」との思いが芽生えたことから、医師を目指すことを決意[2]新型コロナウイルスへの感染拡大と向き合う実父やマーク・ハミルトンセントルイス・カージナルス時代の2011年ワールドシリーズ制覇を経験した元メジャーリーガー)のような医師になることを目標に、2020年2月から「河合塾マナビス」(河合塾が運営する映像配信型予備校)へ勤務しながら、医学部の入学試験合格に向けて勉学に励んだ[4]

2021年6月末に東海大学の医学部編入試験へ合格。10月に東海大学に編入学した。5年半在籍し、所定の課程を修了後に医師国家試験へ臨む予定。志望の診療科はスポーツ整形外科や内科で、医師国家試験に合格した場合には、NPBの選手経験者から初めての医師が誕生することになる[3]

2022年10月より横浜DeNAベイスターズ ベースボールスクールのコーチとして従事。

選手としての特徴

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高い制球力を誇る右のサイドスロー[14]直球の最速は146km/h。変化球は右打者に対するカットボール、左打者には外角に落ちるツーシームが持ち味[14]

詳細情報

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年度別投手成績

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  • 一軍公式戦出場なし

背番号

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  • 14(2016年 - 2017年)
  • 54(2018年 - 2019年)

脚注

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  1. ^ 建通エンジニアリングpresents2015ドラフト会議 指名選手一覧” (PDF). BCリーグ (2015年11月28日). 2017年11月1日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g DeNA戦力外の寺田光輝、医師目指す 筑波大同期のラグビー日本代表・福岡と同じ道”. スポーツ報知 (2019年12月18日). 2019年12月25日閲覧。
  3. ^ a b “元DeNA寺田光輝氏が東海大医学部に合格「道あると示したかった」”. 日刊スポーツ. (2021年7月18日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/202107180000787.html 2021年7月18日閲覧。 
  4. ^ a b “父は新型コロナの闘い最前線 元DeNA右腕が医師を目指して猛勉強中「早く力になりたい」”. Full-Count. (2020年4月22日). https://full-count.jp/2020/04/22/post756564/ 2020年4月23日閲覧。 
  5. ^ “VOL.1 寺田 光輝(石川ミリオンスターズ) 投手#14 - BCリーグドラフト 2016 for NPBドラフト会議”. BCリーグ. (2016年9月15日). http://www.bc-l.jp/2016draft_archives/bcldraft2016_01 2017年10月30日閲覧。 
  6. ^ 元DeNAの医学部生、寺田光輝の突っ走る人生。好きな子を追って受験、就職内定も辞退、大学「8番手投手」からプロへ|プロ野球|集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva”. 集英社のスポーツ総合雑誌 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva. 2022年3月14日閲覧。
  7. ^ a b c “一度は諦めたNPBへの目標、今再び ~石川ミリオンスターズ・寺田光輝~”. BORDERLESS. (2016年9月2日). http://theborderless.jp/2497/ 2017年10月30日閲覧。 
  8. ^ DeNA、6位寺田と合意 中継ぎの即戦力で期待”. 日刊スポーツ (2017年11月13日). 2022年2月6日閲覧。
  9. ^ 2018年6月26日 (火)イースタン・リーグ公式戦(横浜スタジアム)横浜DeNAベイスターズ対東北楽天ゴールデンイーグルスNPB日本野球機構
  10. ^ 寺田光輝選手の手術について | 横浜DeNAベイスターズ” (2018年8月15日). 2019年1月4日閲覧。
  11. ^ 2020年シーズン 選手契約について”. 横浜DeNAベイスターズ (2020年10月1日). 2020年4月23日閲覧。
  12. ^ “43人が参加/12球団合同トライアウト詳細”. 日刊スポーツ. (2019年11月12日). https://www.nikkansports.com/baseball/news/201911110000087.html 2020年4月23日閲覧。 
  13. ^ 自由契約選手 | 2019年度公示”. 日本野球機構. 2022年2月6日閲覧。
  14. ^ a b 寺田光輝 | 選手”. 週刊ベースボールONLINE. 2022年2月5日閲覧。

関連項目

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外部リンク

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