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寺西直次

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
寺西直次
時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕 弘治3年(1557年
死没 慶安2年(1649年
改名 意閑(法号)
別名 定時、信乗、通称:勝兵衛、備中守
官位 従五位下備中守
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼)、前田利長利常光高
加賀藩家老
氏族 寺西氏
父母 寺西駿河守[1]
某(前左衛門)[2]直武(新七)、直行(三右衛門)
特記
事項
直次は加賀藩の別の家老の寺西秀則の従弟にあたる[3]
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寺西 直次(てらにし なおつぐ)は、安土桃山時代武将大名美濃本田城主。江戸時代初期の加賀藩家老。豊臣家譜代家臣だったが、関ヶ原後に改易され、前田家臣となった。諱は定時、信乗ともしてある[4]通称は勝兵衛、初め父と同じ駿河守を称したが、後に備中守と改めた。寺西備中守ともいう。

略歴

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『尾張志』によると尾州海東郡万馬村[5]の人[6][7]羽柴秀吉家臣の寺西駿河守の子[4][7]

父と同じく秀吉に仕え、美濃国本巣郡本田城[8]を与えられた[4]天正18年(1590年)頃、豊臣家直領の太閤蔵入地の近江国長浜10万石の代官に任命された[4][7]

文禄元年(1593年)の文禄の役では後備衆の1人として200名を率いて肥前名護屋城に駐屯[9]し、ついで従五位下備中守に叙任された[4]。同3年(1595年)春に伏見城の普請工事を分担した時、すでに知行1万石であった[4]

慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると遺物・保昌五郎の刀を受領した[4]

慶長5年(1600年)、直次は伊勢近江越前国内に1万石(1万14石とも[10])を領し、関ヶ原の役では、同じ伊勢の桑名城氏家行広と共に会津征伐に出陣したが、途中で石田三成の挙兵を聞いて桑名城へ帰還した。行広は東西両軍の誘いを断って中立を宣言したが、受け入れられなかったので、止む終えず直次と共に西軍に与することにして、弟の行継と籠城した[11]。また、浅井畷の戦いの後に、小松城に帰還する丹羽長重の援軍として、奥山正之上田重安らと共に直次の越前の所領の手勢が送られている[12]

関ヶ原本戦で西軍が敗北した翌日の9月17日、山岡景友の勧めで降伏して城を出た[4]。寺西家は所領没収となり改易とされた。

直次は剃髪して意閑(いかん)と号して放浪したが[4]前田利長と懇意にしていたことから[10]、慶長6年(1601年)に前田家(加賀藩)に召し抱えられた[4]能登鹿島郡津向村[13]に1,500石を与えられた[3]

慶安2年(1649年)、高齢で亡くなった。享年93[14][7]。次男直武が継いた。

脚注

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  1. ^ 豊臣秀吉の直参家臣で、後に豊臣秀次付きに。
  2. ^ 富山藩前田利次の家臣。
  3. ^ a b 永山 1899, コマ番号2.
  4. ^ a b c d e f g h i j 高柳 & 松平 (1981), p. 160.
  5. ^ 愛知県名古屋市中川区。
  6. ^ 加藤国光 編『尾張群書系図部集(下)』続群書類従完成会、1997年、629頁。ISBN 9784797105568 
  7. ^ a b c d 阿部 1990, p. 529.
  8. ^ 岐阜県瑞穂市本田に遺構。
  9. ^ 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、129頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1214367/96 国立国会図書館デジタルコレクション 
  10. ^ a b 永山 1899, コマ番号20.
  11. ^ 参謀本部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日本戦史. 関原役』元真社、1911年、129頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771069/76 国立国会図書館デジタルコレクション 
  12. ^ 参謀本部 1911, p. 294.
  13. ^ 石川県七尾市
  14. ^ 高柳 & 松平 (1981), p. 161.

参考文献

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  • 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、160-161頁。 
  • 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、529頁。ISBN 4404017529