寺西直次
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 弘治3年(1557年) |
死没 | 慶安2年(1649年) |
改名 | 意閑(法号) |
別名 | 定時、信乗、通称:勝兵衛、備中守 |
官位 | 従五位下備中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉(秀頼)、前田利長→利常→光高 |
藩 | 加賀藩家老 |
氏族 | 寺西氏 |
父母 | 寺西駿河守[1] |
子 | 某(前左衛門)[2]、直武(新七)、直行(三右衛門) |
特記 事項 | 直次は加賀藩の別の家老の寺西秀則の従弟にあたる[3]。 |
寺西 直次(てらにし なおつぐ)は、安土桃山時代の武将、大名。美濃本田城主。江戸時代初期の加賀藩家老。豊臣家の譜代家臣だったが、関ヶ原後に改易され、前田家臣となった。諱は定時、信乗ともしてある[4]。通称は勝兵衛、初め父と同じ駿河守を称したが、後に備中守と改めた。寺西備中守ともいう。
略歴
[編集]『尾張志』によると尾州海東郡万馬村[5]の人[6][7]。羽柴秀吉家臣の寺西駿河守の子[4][7]。
父と同じく秀吉に仕え、美濃国本巣郡本田城[8]を与えられた[4]。天正18年(1590年)頃、豊臣家直領の太閤蔵入地の近江国長浜10万石の代官に任命された[4][7]。
文禄元年(1593年)の文禄の役では後備衆の1人として200名を率いて肥前名護屋城に駐屯[9]し、ついで従五位下備中守に叙任された[4]。同3年(1595年)春に伏見城の普請工事を分担した時、すでに知行1万石であった[4]。
慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると遺物・保昌五郎の刀を受領した[4]。
慶長5年(1600年)、直次は伊勢・近江・越前国内に1万石(1万14石とも[10])を領し、関ヶ原の役では、同じ伊勢の桑名城主氏家行広と共に会津征伐に出陣したが、途中で石田三成の挙兵を聞いて桑名城へ帰還した。行広は東西両軍の誘いを断って中立を宣言したが、受け入れられなかったので、止む終えず直次と共に西軍に与することにして、弟の行継と籠城した[11]。また、浅井畷の戦いの後に、小松城に帰還する丹羽長重の援軍として、奥山正之・上田重安らと共に直次の越前の所領の手勢が送られている[12]。
関ヶ原本戦で西軍が敗北した翌日の9月17日、山岡景友の勧めで降伏して城を出た[4]。寺西家は所領没収となり改易とされた。
直次は剃髪して意閑(いかん)と号して放浪したが[4]、前田利長と懇意にしていたことから[10]、慶長6年(1601年)に前田家(加賀藩)に召し抱えられた[4]。能登の鹿島郡津向村[13]に1,500石を与えられた[3]。
慶安2年(1649年)、高齢で亡くなった。享年93[14][7]。次男直武が継いた。
脚注
[編集]- ^ 豊臣秀吉の直参家臣で、後に豊臣秀次付きに。
- ^ 富山藩前田利次の家臣。
- ^ a b 永山 1899, コマ番号2.
- ^ a b c d e f g h i j 高柳 & 松平 (1981), p. 160.
- ^ 現愛知県名古屋市中川区。
- ^ 加藤国光 編『尾張群書系図部集(下)』続群書類従完成会、1997年、629頁。ISBN 9784797105568。
- ^ a b c d 阿部 1990, p. 529.
- ^ 岐阜県瑞穂市本田に遺構。
- ^ 吉村茂三郎 著「国立国会図書館デジタルコレクション 松浦古事記」、吉村茂三郎 編『松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、129頁 。
- ^ a b 永山 1899, コマ番号20.
- ^ 参謀本部 編『国立国会図書館デジタルコレクション 日本戦史. 関原役』元真社、1911年、129頁 。
- ^ 参謀本部 1911, p. 294.
- ^ 現石川県七尾市。
- ^ 高柳 & 松平 (1981), p. 161.
参考文献
[編集]- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、160-161頁。
- 阿部猛; 西村圭子 編『戦国人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年、529頁。ISBN 4404017529。
- 永山近彰 [他]「国立国会図書館デジタルコレクション 列伝 寺西秀則」『加賀藩史稿. 第5巻 列伝3 第6巻 列伝4』尊経閣、1899年 。