寿林尼
寿林尼(じゅりんに、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。本多正信の妻[1][2]。
略歴
[編集]本多正信の後室で、夫が死去すると出家し寿林尼と名乗った[3]。[要出典]。『寛政重修諸家譜』では、正信の妻は「某氏が女」とのみある[4]。
寿林尼については、親鸞の木像「常葉の御影」に関わるエピソードが伝わる(後述)。また、寛永9年(1632年)に稲葉正勝(春日局の子)が小田原藩主となったことを契機として、小田原北条氏の下で真宗寺院が廃れた小田原に真宗寺院を再興すべく、寿林尼は春日局とともに徳川家光に働きかけた[2]。この結果、実相寺(現在の光円寺。浄土真宗本願寺派)が建立されたという[2]。
「常葉の御影」 と寿林尼
[編集]「常葉の御影」は、親鸞の没後に造立された木像で[5]、大谷の親鸞の墳墓を寺院(大谷廟堂)に改めた際に最初に安置された木像とされる[6]。その後、大谷廟堂を巡って争いが生じ、親鸞の曽孫である覚如(覚信尼の子である覚恵の長男)が勝利を収めると、敗れた唯善(覚恵の異父弟)は延慶2年(1309年)に親鸞の木像と遺骨を携えて関東に移った[7]。この親鸞の木像は鎌倉の
佐々木月樵『親鸞聖人伝』によれば、寛永12年(1635年)、宣如(東本願寺第13代法主)のときに、「本多佐渡守の後室」寿林を通じて徳川秀忠に申し入れが行われ、「常葉御影」は将軍家に召し上げられ、将軍家から本山(東本願寺)に奉納されたという[1](ただし、秀忠は寛永9年(1632年)に没している)。
ただし、「常葉の御影」が東本願寺に納められた時期については、元和2年(1617年)[6]とも 天和2年(1682年)頃[9]ともされる。また、秀忠の命令により、相模国永勝寺より本山へ返されたという[10]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 佐々木月樵 1910, p. 741.
- ^ a b c “光円寺の歴史”. 光円寺. 2023年5月3日閲覧。
- ^ 茨城大学人文学部 1984, p. 157.
- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第六百九十三「本多」、国民図書版『寛政重修諸家譜 第四輯』p.707。
- ^ 佐々木月樵 1910, pp. 739–740.
- ^ a b 松金直美 2017, p. 145.
- ^ a b c 津田徹英 2012, p. 30.
- ^ 佐々木月樵 1910, pp. 740–741.
- ^ “常葉御影開扉并宝蔵納庭儀之図 -親鸞聖人と真宗関係寺院図版集-”. 龍谷大学図書館 貴重資料データベース. 2023年5月3日閲覧。
- ^ 仏書刊行会 1912, p. 49.
参考文献
[編集]- 『茨城大学人文学部紀要: 人文学科論集 - 第 17~20 号』(茨城大学人文学部 、1984年、157p)[要検証 ]
- 佐々木月樵『親鸞聖人伝』無我山房、1910年。NDLJP:821933/381。
- 津田徹英「中世真宗の祖師先徳彫像の制作をめぐって」『美術研究』第406号、2012年 。
- 松金直美「【特別調査報告】旧七条村道場史料」『同朋大学佛教文化研究所紀要』第36号、2017年 。
- 『大日本仏教全書: 大谷本願寺通紀[ほか]. 第132冊』(仏書刊行会、1912年、49p)