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小侍従 (細川ガラシャの侍女)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小侍従(こじじゅう、生没年不詳)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。細川ガラシャの侍女。

経歴

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明智珠(後のガラシャ)が細川忠興に嫁ぐ際に、珠の父・明智光秀がつけた侍女。

明智光秀が本能寺の変において主君であった織田信長を自害に追い込み、山崎の戦いにて豊臣秀吉に殺害されると、娘である珠は忠興によって味土野に幽閉される。小侍従はそれに従い、味土野にて出家した。

後に秀吉の許しが出て、大坂に戻ると秀吉に拝謁した。その際、小袖を賜った[1]

秀吉が伏見城見物に、と珠を呼んだ際は代わりに登城した。

その後、忠興の命を受け、細川家家臣・平田因幡に嫁いだ。後に娘・ややをもうける。[2]。嫁いだ後もたびたび、ガラシャと手紙のやり取りをしていた。

因幡の死後は、出家して妙寿と号し、夫の甥にあたる松本彦之進を婿養子に迎えた。

出典

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  1. ^ 『綿考輯録 忠興公九巻』より。【明智日向守殿より秀林院様江被附置候女房にて候、太閤様御代諸国御大名奥方伏見御城為見物被召寄候刻、秀林院様へハ御出被遊間敷由ニ而、山内と申所ニ御立退被成候、然共不被成御出候而は叶かたき趣に付、小侍従申上候ハ、乍恐私儀常に奉似御面候体候由承候間、御名代ニ罷出申度願申候間、高蔵主御取次にて太閤様御前へ被召出、殊外御機嫌よく御直ニ御茶被下御小袖等拝領、其後も右為御礼、猶又登城仕候ヶ様之訳にて因幡果申候而も後家へ御合力米被下候】。
  2. ^ 『キリシタン研究第5巻』より