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小室良七

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小室 良七[1](こむろ りょうしち、幼名・彦次郎[2]1862年4月25日文久2年3月27日) - 1929年昭和4年)9月2日[2])は、日本政治家商人砂糖[3][4])、実業家。館林貯蓄銀行、四十銀行、八十一銀行、東海銀行取締役[5][6][7]上毛モスリン監査役[5][8]。族籍は群馬県平民[5][7]

人物

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館林町(現・館林市)に生まれた[2]。小室良之助の長男[5][7]。幼名は彦次郎[2]。家は代々砂糖販売を営み、彦次郎は第3代に当たる[2]。「砂糖小室」の名は遠近に聞こえていた[2]

幼にして善導寺住職満成和尚に就き漢学及び書を学んだ[2]1883年12月、家督を相続し父祖伝来の業に従事した[2]1886年10月、襲名して良七と改めた[2]1889年、新町村制が実施され4月町会議員の選挙が行われた[2]。良七は挙げられて議員となった[2]。以来改選毎に必ず当選の栄を得て連続9回在職実に40年に及んだ[2]1899年1911年には郡会議員に挙げられた[2]

実業界にあっては1891年1月、第四十国立銀行取締役に挙げられてより、同行が八十一銀行、東海銀行等と組織を変更するも引き続きその職を離れず1927年に及んだ[2]。その他館林貯蓄銀行、上毛モスリン会社、日清製粉会社等の重役として活躍した[2]。住所は群馬県邑楽郡館林町[7]

家族・親族

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小室家
  • 父・良之助[5][7]
  • 母・とき1859年 - ?、東京、岡本数馬の長女)[5]
  • 弟・邦三郎1892年 - ?、群馬、小室國蔵の養子となる)[5][7]
  • 妻・とも1864年 - ?、埼玉、堀越庭七郎の六女)[5][7]
  • 養子・忠太郎1897年 - ?、柴田セイの兄)[5][7]
    • 同妻・いね1901年 - ?、群馬、原勢銕之助の長女)[7]
    • 同長男[7]
  • [7]

脚注

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  1. ^ 『大日本紳士鑑』群馬県邑楽郡441頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月25日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『館林人物誌』180 - 181頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
  3. ^ 『日本全国商工人名録 明治25年版』群馬県656頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2021年12月9日閲覧。
  4. ^ 『群馬県営業便覧 附・繁昌記』412頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第4版』こ20頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
  6. ^ 『人事興信録 第6版』こ28頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
  7. ^ a b c d e f g h i j k 『人事興信録 第7版』こ34頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2018年1月26日閲覧。
  8. ^ 『官報 1914年02月03日』官報 第453号 36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年3月25日閲覧。

参考文献

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  • 『日本全国商工人名録 明治25年版』日本全国商工人名録発行所、1892年。
  • 妹尾久造編『大日本紳士鑑』経済会、1895年。
  • 『群馬県営業便覧 附・繁昌記』全国営業便覧発行所、1904年。
  • 大蔵省印刷局編『官報 1914年02月03日』日本マイクロ写真、1914年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第6版』人事興信所、1921年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 群馬県邑楽郡館林町編『館林人物誌』群馬県邑楽郡館林町、1941年。