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小宮三保松

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小宮 三保松(こみや みほまつ、1859年7月22日安政6年6月23日[1]) - 1935年昭和10年)12月29日)は、戦前の日本官僚法曹文学研究者李王職次官、大審院検事法典調査会委員。錦鶏間祗候

略歴

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下総国古河藩士小宮久左衛門の長男[1]として生まれる[2]1884年明治17年)に司法省法学校の第一期生として卒業し、司法省御用掛となる。司法省議事局・民法局に勤め、1886年(明治19年)に代言人試験委員に任命される。同年、司法制度研究のため、欧州に3ヵ年の留学を命じられる。帰国後、1890年(明治23年)に東京始審裁判所検事となり、貴族院書記官、枢密院議長秘書官、大審院検事などを経て、1907年(明治40年)に韓国宮内次官、1911年(明治44年)に李王職次官に就任する。また、法典調査会委員を務めた。1917年大正6年)1月15日、錦鶏間祗候を仰せ付けられた[3]

後年は古事記日本書紀万葉集など古典文学の研究でもしられていた。

栄典

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

著書

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  • 『民法債権編講義』(1898)
  • 『物権法講義』(1899)

脚注

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  1. ^ a b 人事興信所 1903, 853頁.
  2. ^ 20世紀日本人名事典などでは周防国出身とある。なお、小宮の岳父は長州出身である。
  3. ^ 『官報』第1334号、大正6年1月16日。
  4. ^ 『官報』第2532号「叙任及辞令」1891年12月7日。
  5. ^ 『官報』第3725号「叙任及辞令」1895年11月27日。
  6. ^ 『官報』第4570号「叙任及辞令」1898年9月21日。
  7. ^ 『官報』第5210号「叙任及辞令」1900年11月12日。
  8. ^ 『官報』第5839号「叙任及辞令」1902年12月18日。
  9. ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
  10. ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
  11. ^ 『官報』第1334号「叙任及辞令」1917年1月16日。
  12. ^ 『官報』第5964号「叙任及辞令」1903年5月22日。
  13. ^ 『官報』第8396号「叙任及辞令」1911年6月19日。

参考文献

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  • 『百家高評伝 第一編』(編)久保田高三(文寿堂書林、1893)
  • 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779810 
  • 20世紀日本人名事典 - 小宮美保松とは
  • 七戸克彦「現行民法典を創った人びと(26)組織改編後の委員3・4 : 小宮三保松・西源四郎、外伝21 : 閨閥」『法学セミナー』第56巻第6号、日本評論社、2011年6月、62-64頁、CRID 1050580007681730432hdl:2324/20230 
公職
先代
(新設)
日本の旗 李王職次官
1911年 - 1917年
次代
国分象太郎