小寺休夢
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時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 大永5年1月12日(1525年2月4日) |
死没 | 文禄3年(1594年)3月 |
改名 | 小寺高友 → 小寺休夢 |
別名 | 地蔵院善慶[1]、休夢斎善慶[1]、千太夫(通称)、恒屋安芸守、安芸守法印[2] |
主君 | 小寺政職→織田信長→豊臣秀吉 |
氏族 | 小寺氏、黒田氏[3](自称宇多源氏)、恒屋氏 |
父母 | 父:黒田重隆 |
兄弟 | 職隆、高友(休夢)、井手友氏、松井重孝 |
子 | 黒田宇兵衛 |
小寺 休夢(こでら きゅうむ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。実名は高友(たかとも)。茶人として著名であり、休夢斎(きゅうむさい)の号で知られる。
生涯
[編集]大永5年(1525年)、黒田重隆の子として播磨国龍野にて誕生。兄に黒田職隆、弟に井手友氏、松井重孝がいる。
一時、恒屋安芸守と称して播磨砥堀山城に入ったといわれており[4]、永禄年間頃までに出家剃髪して増位山地蔵院に住み、休夢斎善慶と号した。のち雲照院に移った。元亀4年(1573年)、別所氏によって増位山が攻められると、兄・職隆らの支援を受け、また志方城主・櫛橋氏や野口城主・長井氏らの仲介を得て和睦した。
その後も職隆の子で甥の孝高(官兵衛)に従い、三木合戦などで活躍した。やがて孝高が仕えた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に御伽衆として仕え、晩年には茶会にも招かれたという。
逸話
[編集]- 文化人、特に茶人として著名で、天正15年(1587年)、九州遠征中の豊臣秀吉より、浜(現在の九州大学馬出キャンパス内)での茶会に招かれた。このとき秀吉の命を受けた千利休は、松に鎖をおろし、雲龍の小釜をかけ、白砂の上の松葉をかきあつめて湯をわかしたとされる(→千利休の項を参照のこと)。
- 平成26年(2014年)8月、姫路市の増位山随願寺で「善慶」と刻まれた供養塔が同寺の地蔵院跡地から見つかった[6]。
脚注
[編集]- ^ a b 「広峯神社文書」(『兵庫県史』史料編 収録)
- ^ 「芥田文書」(『兵庫県史』史料編 収録)
- ^ 『寛政重修諸家譜』などの資料では黒田氏(黒田高友・黒田休夢)として修蔵されるが、(誕生時は不明ながら)黒田姓を名乗った形跡は確認されていない。元々黒田一門は、休夢の兄の職隆が主君・小寺氏より小寺姓を賜いそれを称し、政職の没落後は甥の孝高をはじめ黒田姓に改めたのだが、死の前年に当たる文禄2年1月15日の『宗湛日記』に「小寺休夢」と見られ、本家とは違って晩年まで小寺姓を用いていた。
- ^ 『播磨御着郡誌 別冊』より。
- ^ 文禄3年4月10日付の「巌剛語聞書状」(『旧記雑録後編』二 収録)による(『歴史読本』2013年5月号)。
- ^ “官兵衛の叔父・小寺休夢の供養塔見つかる 姫路”. 神戸新聞NEXT (神戸新聞社). (2014年8月20日). オリジナルの2014年8月21日時点におけるアーカイブ。 2014年8月閲覧。