随願寺
随願寺 | |
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本堂 | |
所在地 | 兵庫県姫路市白国三丁目12番5号 |
位置 | 北緯34度52分19.77秒 東経134度42分45.87秒 / 北緯34.8721583度 東経134.7127417度座標: 北緯34度52分19.77秒 東経134度42分45.87秒 / 北緯34.8721583度 東経134.7127417度 |
山号 | 増位山 |
宗派 | 天台宗 |
本尊 | 薬師如来 |
開基 | (伝)聖徳太子 |
中興年 | (伝)天平7年(735年) |
中興 | (伝)行基 |
正式名 |
増位山随願寺 (歴史的・非略体)增位山隨願寺 |
札所等 |
播磨西国三十三箇所第4番 播州薬師霊場第15番 |
文化財 |
木造毘沙門天立像、本堂・開山堂ほか(重要文化財) 行基菩薩坐像ほか(市文化財) |
法人番号 | 4140005014044 |
随願寺(ずいがんじ)は、兵庫県姫路市にある天台宗の寺院である。山号は増位山(ますいさん)。本尊は薬師如来。
概要
[編集]姫路市街北方に位置する増位山西南の山間にある。『播州増位山随願寺集記』(乾元元年・1302年成立)所収の寺伝によれば、厩戸皇子(聖徳太子)が高麗僧の慧便(えべん)に命じ開基した増位寺が前身であり、後に行基によって中興されたという。『集記』によれば、当初は法相宗寺院であったが、承和元年(834年)仁明天皇の命により天台宗寺院となり、嘉承2年(849年)「随願寺」の寺号を与えられたと伝え、後には播磨天台六山の一つに数えられるようになった。『集記』は宇多法皇、白河法皇などの行幸、平清盛による伽藍修造、源頼朝による一切経奉納などの事跡を伝えるが、他に史料がなく、中世以前の寺史については伝承の域を出ない。
17代長吏(住職)の正覚房道邃(しょうがくぼうどうずい、? – 1157年)は学僧として知られ、多くの著作がある。
中世末期には多くの衆徒を抱え、多数の坊舎が立ち並ぶ大寺院であったが、天正元年(1573年)に三木の別所長治に攻められ全山焼失。寺僧は他所に避難していたが、天正14年(1586年)旧地に再興された。今の本堂は、寛文6年(1666年)姫路藩主榊原忠次によって再建されたものであり、堂内には狩野探幽作の天井画が残っている。
2014年8月、小寺休夢の僧名「善慶」が刻まれた供養塔が、塔頭の地蔵院跡地から見つかった[1]。
伽藍・境内施設
[編集]- 本堂
- 開山堂(奥の院)
- 常行堂(念仏堂)
- 毘沙門堂
- 経堂(実相殿)
- 鐘楼
- 蓑塚
- 風羅堂跡
- 五丁石の石仏
- 井上千山の墓
- 榊原忠次の墓
- 榊原政邦の墓
- 実相院の墓
- 池田輝政の供養塔
- 道邃[注釈 1]、善榮[注釈 2]、善慶[注釈 3]の供養塔
文化財
[編集]重要文化財(国指定)
[編集]兵庫県指定文化財
[編集]- 木造薬師如来坐像
姫路市指定文化財
[編集]御詠歌
[編集]- 播磨西国三十三箇所
- ただ頼め 仏の誓い 増位山 まいる心の たのもしき身を
- 播州薬師霊場
- 増位山 のぼりてみれば ありがたや 瑠璃の薬を あたえまします
年中行事
[編集]- 2月11日 - 追儺会ならびに大護摩(本堂)
- 毎月6日 - 実相院殿護摩供(実相殿)
- 毎月28日 - 不動明王護摩供(念仏堂)
前後の札所
[編集]- 3 八葉寺 - 4 随願寺 - 5 光正寺
- 14 薬常寺 - 15 随願寺 - 16 圓教寺
交通
[編集]バス
[編集]JR姫路駅北口より神姫バスに乗車、「白国」停留所下車、北へ約350m。本堂へは、更に約800m登山。
- 81系統 江鮒団地行き 又は 北条行き
- 82系統 古法華公園行き
- 84系統 福崎駅前行き (溝口経由)
- 86系統 福崎駅前行き (江鮒団地経由)
鉄道
[編集]JR播但線野里駅より徒歩約13分。
道路
[編集]兵庫県道518号砥堀本町線より随願寺入口交差点北へすぐ。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “官兵衛の叔父・小寺休夢の供養塔見つかる 姫路”. 神戸新聞NEXT (神戸新聞社). (2014年8月20日). オリジナルの2014年8月21日時点におけるアーカイブ。 2014年8月閲覧。
参考文献
[編集]- 『日本歴史地名大系 兵庫県の地名II』、平凡社、1999
- 『兵庫県大百科事典』、神戸新聞出版センター編・刊行、1983(「随願寺」「正覚房道邃」の項)