結 (仏教)
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仏教用語 結 | |
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パーリ語 | saṃyojana |
中国語 | 結, 結使, 結纏 |
日本語 |
結 (ローマ字: Ketsu) |
英語 | Fetter, chain, bond |
仏教において結(けつ、巴: saṃyojana, サンヨージャナ)とは、衆生を輪廻に縛り付ける「束縛」としての煩悩のこと[1]。結のため、人は苦しみに満ちた生を繰り返すこととなる。
パーリ経典
[編集]—ダンマパダ 第24章 比丘の章 370
五下分結・三結
[編集]衆生を欲界(下分)へと縛り付ける結を、五下分結(巴: orambhāgiya-saṃyojana)と呼ぶ。
- 有身見(巴: sakkāya-diṭṭhi) - 五蘊を自己とみなす見解[1]
- 疑(巴: vicikicchā) - 疑い
- 戒禁取(巴: sīlabbata-parāmāsa) - 誤った戒律・禁制への執着
- 欲愛(巴: kāmacchando)- 五欲に対する欲望・執着
- 瞋恚(巴: vyāpādo) - 怒り
この5つの内、1-3の3つを特に三結(さんけつ)と呼び、これらは四向四果の最初の段階である預流果において絶たれる。
五上分結
[編集]→詳細は「五上分結」を参照
衆生を色界・無色界(上分)へと縛り付ける結を、五上分結(巴: uddhambhāgiya-saṃyojana)と呼ぶ。
- 色貪(巴: rūpa-rāga) - 色界に対する欲望・執着
- 無色貪(巴: arūpa-rāga) - 無色界に対する欲望・執着
- 慢(巴: māna) - 慢心
- 掉挙(巴: uddhacca) - (色界・無色界における)心の浮動
- 無明(巴: avijjā) - 根本の無知
この5つを絶つことで、四向四果の最終段階である阿羅漢果へと到達できる[3][4]。
論蔵における十結
[編集]以下が論(アビダンマ)の分類法(巴: abhidhamma-naya)における「結」である。[1]
- 貪欲(巴: kāma-rāga)
- 瞋恚(巴: paṭigha)
- 慢(巴: māna)
- 見(巴: diṭṭhi) - まちがった見解
- 疑(巴: vicikicchā)
- 戒禁取(巴: sīlabbata-parāmāsa)
- 有貪(巴: bhavarāga) - 存在することへの執着
- 嫉(巴: issā) - ねたみ、嫉妬
- 慳(巴: macchariya) - けち、物惜しみ
- 無明(巴: avijjā)
脚注
[編集]- ^ a b c P.A.パユットー 著、野中耕一 訳『ポー・オー・パユットー 仏教辞典(仏法篇)』、2012年2月、サンガ、p.202-203
- ^ These fetters are enumerated, for instance, in SN 45.179 and 45.180 (Bodhi, 2000, pp. 1565-66). This article's Pali words and English translations for the ten fetters are based on Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 656, "Saŋyojana" entry (retrieved 2008-04-09).
- ^ a b 悟りの階梯 - 藤本晃/日本テーラワーダ仏教協会
- ^ a b パオ森林僧院における教えと修行 日本語訳 pp33-34 [リンク切れ]