三結
三結(さんけつ、巴: tīni saṃyojanāni, ティーニ・サンヨージャナーニ)とは、仏教において、預流果を得ると断たれる3つの煩悩の総称。「結」(けつ、巴: saṃyojana, サンヨージャナ)とは「束縛」のことであり、「三結」は「3つの束縛」を意味する。
- 有身見(うしんけん、巴: sakkāya-diṭṭhi) - 五蘊を自己とみなす見解[1]
- 疑(ぎ、巴: vicikicchā) - 教義への疑い
- 戒禁取(かいごんしゅ、巴: sīlabbata-parāmāsa) - 誤った戒律・禁制への執着
有身見
[編集]Katamañca bhikkhave, sakkāyo: Pañcupādānakkhandhātissa vacanīyaṃ,
Katame pañca, Seyyathīdaṃ: rūpūpādānakkhandho vedanūpādānakkhandho saññūpādānakkhandho saṃkhārūpādānakkhandho viññāṇūpādānakkhandho. Ayaṃ vuccati bhikkhave, sakkāyo.比丘たちよ、有身とは何か? それは五つの取蘊である。
いかなる五か? 色取蘊、受取蘊、想取蘊、行取蘊、識取蘊である。比丘たちよ、これが有身である。
有身見(巴: sakkāya-diṭṭhi、梵: satkāyadṛṣṭi、蔵: 'jig tshogs la lta ba)、我見(がけん)とは、sat (存在) + kāya (身体) + diṭṭhi (見) であり、五悪見のひとつとされている[2]。
一般的には「個々の自我に対する信念」や、単に「自己観」とされ、「我(アートマン; attan)が恒久的な存在であるという蘊の信条」である[3]。仏教ではアートマンが無常であるという無我(アナッタン)の立場を取るためである[2]。
パーリ経典では、釈迦は以下のように有身見を記載している。
では比丘たちよ、どのようなものが捨てられるべき煩悩であるのか?
比丘たちよ、ここに(法の教えを聞いていない)庶民の人がいるとする。 ..(中略)..彼らはこのように不適切に考える。
- 私は過去に存在したのか? 過去の私は何物だったのか?
- 未来に私は存在するのか? 未来の私は何物となっているか?
- 私は何物なのか? 私はどのようであるか?
- 私はどこから来たのか? 私はどこへ行くのか?
このような間違った方法で考えるものは、これら6つの見解に至る。
- 私には我(アートマン)がある
- 私には我がない
- 私が我と知覚しているもの、それが我(アートマン)である
- 私が我と知覚しているもの、それは我ではない
- 私は無我によって、私の我を知覚する
- いま語り感受している私こそが我であり、私の我は恒常であり、不変であり、永久に存在する(常見)
比丘たちよ、これらは、悪見、見の密林、見の荒野、見の曲芸、見による狂乱、見による結束と呼ばれている。
法蘊足論では「五取蘊に対して我・我所の想を起すことにより忍・楽・慧・観・見を生じること」、 界身足論では「五取蘊を随観して、我・我所を把握して忍・楽・慧・観・見を生じること」と述べられている [4]。
二十有身見
[編集]二十有身見、二十身見とは、五蘊(色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊)について、それぞれ「この蘊が我である」「我とはこの蘊である」「蘊があるため、その中に我がある」「我があって、その中に蘊があるる」との見を持つこと[4][5]。
諸比丘! ..(中略).. 愚癡無聞凡夫見色是我、異我、我在色、色在我;
見受、想、行、識,是我、異我、我在識、識在我。比丘たちよ、..(中略).. 愚かで無知な人々はこう考える、色が我である、我とは色のことである、私の中に色がある、色の中に私がいる。
受、想、行、識もそう考える。識が我である、我とは識のことである、私の中に識がある、識の中に私がいると。—雜阿含経, 109
四向四果における三結
[編集]到達した境地(果位) | 解放された結 | 苦が終わるまでの輪廻 | |
最大7回、欲界と天界を輪廻する | |||
一度だけ人として輪廻する | |||
脚注
[編集]- ^ a b P.A.パユットー 著、野中耕一 訳『ポー・オー・パユットー 仏教辞典(仏法篇)』、2012年2月、サンガ、p.202
- ^ a b c 藤本晃著『悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』サンガ、2015年11月、Chapt.3。ISBN 9784865640267。
- ^ Rhys Davids & Stede (1921-25), pp. 660-1, "Sakkāya" entry (retrieved 2008-04-09). See also, anatta.
- ^ a b 木村紫「『俱舍論』を中心とした有身見の研究 : 刹那的な諸行を常住な一個体(piṇḑa)と把握する想と聖者の諦」『立正大学 博士論文』2016年3月20日、NAID 500000984239。
- ^ 袴谷憲昭「二十種有身見考」『駒澤大學禪研究所年報』第29巻、2017年12月、81-109頁、CRID 1050569000710270208。
- ^ 中部22 蛇喩経など