一来
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仏教用語 一来 | |
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パーリ語 | Sakṛdāgāmin |
サンスクリット語 |
सकृद् आगामिन् (IAST: Sakṛdāgāmin) |
中国語 |
斯陀含 , 一往來 (拼音: sī tuó hán) |
日本語 |
一来 (ローマ字: Ichirai) |
英語 | returning once[1] , once-returner |
一来(いちらい、巴: sakadāgāmin サカダーガーミン, 梵: sakṛdāgāmin サクリダーガーミン, सकृद् आगामिन् sakRd-aagaamin、旧訳音写:斯陀含〈しだごん〉)は、仏教において悟りの第二段階であり、四向四果の1つ。
原始仏教では、預流として既に三結が断たれており、さらに貪・瞋・癡の三毒が薄くなった者とする[2]。
『倶舎論』では、一来向は欲界の修惑(しゅわく、情的煩悩)の前三品または四品を断じた者とし、人界の家と天界の家とを往復するから「家家」(けけ)と呼ぶ。一来果は欲界の前六品を断じた位である。
この段階に入ると、一度 (sakRd) 天界に生れ、再び人間界に戻って、その次は二度と輪廻しなくなる[2]。
抜粋
[編集]Katamo ca bhikkhave dutiyo samaṇo? Idha bhikkhave bhikkhu tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā rāgadosamohānaṃ tanuttā sakadāgāmī hoti, sakideva imaṃ lokaṃ āgantvā dukkhassantaṃ karoti. Ayaṃ bhikkhave dutiyo samaṇo.
比丘たちよ、いかなるものが第二の沙門なのか。
比丘たちよ、ここに比丘がいて、三結が滅尽され、貪・瞋・痴が希薄となったために一来者となり、一度だけ世間(loca)に来て苦の寂静をなす。 比丘たちよ、これが第二の沙門である。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 660, entry for "Sakadāgāmin" (retrieved 26 Sep 2007 at http://dsal.uchicago.edu/cgi-bin/philologic/getobject.pl?c.3:1:2653.pali).
- ^ a b c 藤本晃著『悟りの4つのステージ : 預流果、一来果、不還果、阿羅漢果』サンガ、2015年11月、Chapt.4。ISBN 9784865640267。