小少将 (阿波国の人物)
小少将(こしょうしょう、生没年不詳)は、戦国時代の女性。細川氏之(持隆)の側室で、後に三好実休の継室になったとされる[1]。細川真之・三好長治の生母[注釈 1]。大形殿(おおかたどの[4])とも称される。
生涯
[編集]阿波国西条東城主である岡本美作守の娘として生まれる[1][5]。
当初は阿波守護・細川氏之(持隆)の正室・大内氏に侍女として仕え、その後、氏之の寵愛を受け、細川真之を生んだという[6]。
天文22年(1553年)、氏之が三好実休に殺害されると、実休は真之を主君に擁立し、その母である小少将を室に迎えた[7]。小少将と実休の間には三好長治が生まれている[8]。また実休に嫁いだ後、小少将は大形殿[注釈 2]と呼ばれた[10]。
永禄5年(1562年)、実休が戦死した[11]。実休没後の小少将について、近世初期に成立した軍記『昔阿波物語』や『三好記』では[注釈 3]、三好氏の重臣・篠原自遁を身近に招き密通したと記されている[12]。両書によると、この醜聞は国中に広まり、小少将は噂が広まった責任を三好氏の執政である篠原長房に押し付けたという[12]。この結果、元亀4年(1573年)[13]、篠原長房は小少将の子である三好長治と細川真之により討たれたとされる[12]。なお、篠原長房と三好長治らの対立の原因を小少将に求める説は信憑性が乏しいとされている[14]。
また、いくつかの軍記は小少将が篠原自遁に嫁いだとしている[注釈 4]。
四国にはこの他、同じ名の人物として長宗我部元親の側室で長宗我部右近大夫の母の小少将がいる[18]。
人物
[編集]『三好記』によると、小少将は容貌が優れており、そのため細川氏之の寵愛を受けたとされる[4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 長治の弟・十河存保は母が別とされる[2][3]。
- ^ 「大方殿」は貴人の母に対する敬称[9]。
- ^ 成立時期は、長谷川賢二「天正の法華騒動と軍記の視線―三好長治の「物語」をめぐって―」(天野忠幸編『論集戦国大名と国衆10 阿波三好氏』岩田書院、2012年)や山本 1966, pp. 220–221, 300–301, 各「解題」より。
- ^ 『昔阿波物語』に「自遁は、長春様のまヽ父に御成候」とあり[15]、『みよしき』には小少将について「篠原自遁を殿にめされて」[16]、『三好別記』には「篠原自遁に嫁してありける」とある[17]。ただし、山本大は『昔阿波物語』の「長治の継父」という表現を、小少将と通じたことを示すとしている[15]。
出典
[編集]- ^ a b 森脇崇文 著「三好実休―兄長慶を支える阿波三好家当主」、天野忠幸 編『戦国武将列伝8 畿内編 下』戎光祥出版、2023年、227頁。ISBN 978-4-86403-447-0。
- ^ 天野忠幸『三好一族―戦国最初の「天下人」』中央公論新社〈中公新書〉、2021年、117頁。ISBN 978-4-12-102665-1。
- ^ 平井 2023, p. 142.
- ^ a b 山本 1966, p. 236.
- ^ 平井 2023, pp. 133, 140–141.
- ^ 平井 2023, p. 140.
- ^ 平井 2023, p. 133.
- ^ 平井 2023, pp. 133, 140–142.
- ^ 「大方殿」『デジタル大辞泉』 。コトバンクより2023年10月16日閲覧。
- ^ 「三好記」「昔阿波物語」(山本 1966, pp. 237, 313)。
- ^ 平井 2023, p. 143.
- ^ a b c 山本 1966, pp. 256–260, 313–315.
- ^ 平井 2023, pp. 146–147.
- ^ 平井 2023, pp. 147, 197–198.
- ^ a b 山本 1966, p. 320.
- ^ 徳島県立図書館 編『続阿波国徴古雑抄2』出版、1973年、97頁。全国書誌番号:73019131。
- ^ 塙保己一 編『群書類従 第拾四輯』経済雑誌社、1894年、567頁。全国書誌番号:20474265 。
- ^ 山本大『長宗我部元親』(新装版)吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年(原著1960年)、249–250頁。ISBN 4-642-05103-1。