コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

小島憲之 (建築家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小島 憲之(こじま のりゆき、1857年(安政4年) - 1918年8月15日)は、日本の建築家。アメリカのコーネル大学建築学部を卒業、日本人で初めて建築の学士号を取得したとされる。旧制第一高等学校などで図学、英語を教え、多くの後進を育てた。東京芸術大学構内に残る赤レンガの建物(旧東京図書館書籍庫)は小島の作品である。

経歴

[編集]

下野国河内郡雀宮(栃木県宇都宮市)生れ、父は幕臣であった。

明治維新後、横浜で外国人に英語を学び、大学南校に入学。アメリカ人教師ハリスに認められ、1873年(明治6年)学校を中退し、ハリス、箕作佳吉とともにアメリカに渡った。1875年、コーネル大学建築学部に入学。1879年に卒業し、学士号(Bachelor of Architecture)を取得した。建築事務所で働いた後、ヨーロッパ、東南アジアを経て、1881年(明治14年)に帰国した[1]。ロンドン滞在時に留学中の辰野金吾(1879年工部大学校卒業)と会ったという[2]

帰国後は東京大学理学部、工部大学校、大学予備門・第一高等学校、東京美術学校(現・東京芸術大学)で用器画、英語を教えた。英語に堪能で、神田乃武浅田栄次とともに英語教育界の三羽烏と呼ばれた[3]夏目漱石も小島の教え子の一人である。また、第一高等学校で長年用器画を担当していたため、伊東忠太塚本靖など、小島に学んだ建築家は数多い。

1885年、湯島聖堂にあった東京図書館を上野に移すことになり、移転計画に関わった(帝国図書館の項を参照)。書籍庫(1886年竣工)はこの時に建てられ、小島の作品として唯一現存する。あまり実作の機会には恵まれず、建築家としては不遇であった。

1918年、日本アルプス登山の途中で急逝、享年62。

子息の小島新吾は建設省営繕局長を務めた。また、建築家西村好時の義父にあたる。

栄典

[編集]
位階
勲章等

注釈

[編集]
  1. ^ 高杉造酒太郎『建築人国雑記』P62(1973年)
  2. ^ 森井健介『師と友』P68(1967年)
  3. ^ 森井前掲書P26
  4. ^ 『官報』第4207号「叙任及辞令」1897年7月12日。
  5. ^ 『官報』第5169号「叙任及辞令」1900年9月22日。
  6. ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
  7. ^ a b 『官報』第1816号「叙任及辞令」1918年8月21日。
  8. ^ 『官報』第5098号「叙任及辞令」1900年7月2日。
  9. ^ 『官報』第6902号「叙任及辞令」1906年7月3日。
  10. ^ 『官報』第8257号「叙任及辞令」1910年12月28日。

参考文献

[編集]
  • 新建築臨時増刊「日本近代建築史再考」(1974.10)

関連項目

[編集]