小林義繁
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 元中8年/明徳2年12月30日(1392年1月24日) |
別名 | 鬼ここめ、鬼跼(こごめ)、鬼神 |
戒名 | 梅樹院殿重軍小林大居士 |
官位 | 修理亮、上野守 |
幕府 | 室町幕府丹波守護代 |
主君 | 山名氏清 |
小林 義繁(こばやし よししげ)/ 小林 時直(こばやし ときなお)は南北朝時代の武士。義繁を題材とした能『小林』が作られている。名称は明徳記には義繁とあり、日本外史や江戸〜明治期の資料には時直との表記が見られる。
生涯
[編集]小林氏は山名氏が上野国にいた鎌倉時代以来の譜代の重臣で、山名氏が初めて守護に任ぜられた延元2年/建武4年(1337年)の山名時氏の伯耆守護補任の際の守護代が小林左京亮国範であったとされている[1]。
また上野国山田郡小林村出身で、鎌倉の戦いと湊川の戦いで新田義貞に従った小林修理之進義直(湊川の戦いにて生田の森で戦死)の長男であるとの伝承がある。長男、修理之助時直(=義繁)、次男・兵衛尉忠直と称し、時直は山名氏清に仕えた。
氏清が将軍足利義満に反した明徳の乱のとき、もってのほかの悪逆であるとして氏清をいさめるが聞きいれられず、討死を覚悟で兵をひきいて出陣。元中8年/明徳2年12月30日、山名上総介(山名義数との説もあり)とともに先鋒として出陣し、幕府軍の先鋒である大内義弘軍と衝突。大内義弘と一騎討ちを行い戦死した。
ゆかりの品
[編集]- 国行
- 小林長刀
大内義弘が小林義繁との一騎討ちで使用した薙刀[3][4]。「小林」と号を付けられて大内家の家宝となり、大内氏滅亡の後は、毛利隆元により厳島神社に奉納された[5][6][7][8]。作風に備前長船長義一派の特色が見られる[9]。
登場作品
[編集]- 能
- 『小林』
- 小説
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ 市川裕士『室町時代の地方支配と地域権力』戎光祥出版、2017年、P134-136
- ^ 本阿弥光心『光心押形』1556年。
- ^ 香川正矩『陰徳太平記』 六、1717年、大内先祖之事。NDLJP:772376/86。
- ^ 近藤清石『大内氏実録』 一、1885年、巻第三 世家第三 義弘。NDLJP:780384/32。
- ^ 棚守房顕『房顕覚書』1580年。
- ^ 岡田清; 山野峻峯斎『芸州厳島図会』 八・九、1842年、宝物之部 厳島宝物図会 巻之三・四。NDLJP:2563524/31NDLJP:2563525/36。
- ^ 広島県『広島県史』 古代中世資料編II、1976年、厳島野坂文書 一五七五・一五八四・一五八五。全国書誌番号:73022361。
- ^ 安芸高田市歴史民俗博物館『毛利隆元-名将の子の生涯と死をめぐって-』2013年。 NCID BB27381948。
- ^ 泉屋博古館『厳島神社の刀剣』2008年。 NCID BA86723570。全国書誌番号:21484599。